スナップ写真はデジカメで撮り、主要な記念写真は東京に持ち帰りスキャナーで取り込んだところである。拙者の所有する写真の処理は完了し、サイトにアップしたところだ。あとは、重複しないように同級生から集めるだけである。
改めた思うのだが、昭和30年代の小学校時分のものは本当に少ない。中学3年になって、やっと増えてきたようである。特に、東京方面の修学旅行や、盛岡で開催された中体連の時のものが多く、カラーも何枚も混じるようになっている。
収集した中で、末崎町と関連する思い出の写真を少しずつ紹介していきたい。
先週末、アナログTV放送が終了したが、TVの普及する以前の写真を紹介する。
東京オリンピックが開催されたのは小6の時である。直前の数年間に末崎町においてもTVが一気に普及した。屋根にアンテナが設置されるので、そのことがよくわかる。TV普及の前は、子供は外で遊ぶのが仕事だった。小学の高学年になると、外で遊ばなくなった。下校するとTVにかじりつく生活に一変したからである。我々が「テレビッ子第一世代」になってしまった。
この写真は昭和34年4月29日と思われる。碁石海岸で毎年開催される「碁石観光祭」の時である。同じ小細浦地区(当時、部落と呼ぶ)の遊び仲間と偶然に出くわし撮ったようである。皆、水鉄砲でポーズを決めている。ちなみに、上右端の御仁がいわゆるガキ大将のTアンヤ(目上の近しい男性の敬称、女性は「アンネ」と呼ぶ)である。TVの無い時代は、ガキ大将をリーダーに、部落単位で遊んだものである。春秋は野球、夏は地元の入江で泳ぎ回り、冬は田圃で八回戦(当時、末崎で興じられていた競技、いずれ紹介したい)で汗を流した。だが、TVが普及するにつれて外であまり遊ばなくなり、「ガキ大将」は過去のものになってしまった。
娯楽の少なかった当時、今では信じられない程の花見客が碁石海岸に詰めかけた。噂では、大船渡市の人口に相当する人が集まったというが、大袈裟であろうが、それでも1万人近くは来たのではと思うくらい凄まじいものであった。当時は碁石行きバスの定期便は無かったと思うが、この日に限り大船渡や細浦駅から臨時バスが何台も増発された。途中の停留所で乗ろうとしても既に満杯状態で、結局何台も待つか、一時間程かけて碁石まで歩かなければならなかった。自動車は稀な時代ではあったが、碁石海岸入口付近の砂利道に沿った草地には、何台も横列駐車し、その長さが100m以上もあったのではと記憶している。
当時、市内の桜の名所は碁石だった。広場の周囲に植えられた大きな桜の木が一斉に花開くのである。松林と雄大な岩壁、そして広大な太平洋。花見スポットとしてこれほど優れた場所は知らない。松林の木陰、岩場など、おもいおもいの場所で、宴会の御座が敷かれたのである。
碁石観光祭には暫く行ったことがない。おそらく、当時の賑わいはないであろう。娯楽の多様化、花見スポットも他にもできたこと。碁石にはいつでも気軽に自動車で行けるようになったこともあろう。また地球温暖化のせいか、4月29日の頃には桜が散っているらしい。
そして、思うに、当時は大っぴらな男女交際は控えられたもので、外で若い男女が羽を伸ばせるのは「碁石観光祭」が格好のチャンスだったのではなかろうか。「藪のなかでアベックがキスしているのを見た」と、観光祭後の教室でたわい無く噂し騒いだものである。当時、子供だったので、その辺は想像の域を出ないが・・・。
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