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2011年12月14日水曜日

胃カメラ検査体験記

本日、人生初めての胃カメラ検査を行った。

11月になった頃より、腹部(胃のあたりか)に違和感を覚えるようになった。しかも空腹感が湧かないのである。ほっとけば時期良くなるだろうとおもいきや、改善の兆しがみられない。今月に入っても症状は依然と続いていた。傷みはないものの気掛かりである。

20年近く健康診断をうけていないので、もしや胃ガンかとも想像した。兆候が現れた時には相当進行していると言うことでもあり、末期段階になっているやも知れない。とそんな最悪のケースも頭を過ぎり、夜ねつかれないこともあった。

だが、食欲はあり、体重の減少はみられない。便も健康色である。自らは喫煙したことはなく(他人の喫煙の二次被害者ではあるが)、酒も飲むことは稀であり、毎夜ジムで汗しているので、癌とは縁遠い生活環境にあると自負してはいたのではある。それでも、腹部の違和感は収まらない。

そんな訳で、近所の胃腸科の病院をネットで調べて見ることにした。その中で、2-3の適当と思われる病院が見つかった。二つは個人医院で、一つは地元の入院病棟を備えた中規模総合病院である。更に病院クチコミサイトを調べ、3つのうちで、内視鏡検査に関するクチコが4件程投稿されていた病院があった。いずれも好意的な内容で、しかも最近の投稿である。早速、自転車で出かけ、その病院を外からチェックしてみることにした。駅からだいぶ離れた普通の住宅街にあった。近くにあった看板にも「内視鏡検査」と書かれてある。個人で独立しているということは、それだけ技術に自信があってのことだろうと思われる。建物は住宅風で新しい。

先週、この個人医院で簡単な診察を受け、翌週(即ち本日)内視鏡による胃の検査を行うことにしたのであった。どことなく頼りなさそうな、拙者より遥かにお若い先生。また内視鏡検査の説明を看護師さんから受けた部屋の設備が貧弱そうな感じ(実は、その奥の部屋に内視鏡設備があったのだがその時は知らなかった)。正直、任せて大丈夫だろうかと不安が募ってきた。むしろ、設備の充実した中堅規模の病院で総合的にチェックしてもらったほうが良いのではとも思ったのであった。あれやこれや迷っているうちに面倒になり、本日を迎えてしまったのである。

内視鏡検査は、はっきり言って、無意識のうちに完了してしまった。最大の苦痛は、看護師さんから注射され、薬液を飲まされ、唾液が喉を通りにくい状態のまま、薄暗いベットの上で俯き加減の状態で長時間放置されていたことである。腰がベルトで固定され、寝返りができないのである。いい加減イライラしてくる。これではマズいと思い、看護師さんが様子見に部屋に入ってきた時に緩めてもらったことで、多少はリラックスできた。それでも先生が現れない。午前中の来患者の診察が長引いているようである。(後で、内視鏡を挿入していた時間を聞いたところ5分とのことで、40分程ベットの上で放置されていたことになる・・・。)

そして、やっと先生が部屋に現れた。そして、口に直径4cm程の緑色の開口固定具を嵌めこまれた。拙者、元々口が強制固定されると、背中に脂汗が出るような強烈のストレスを感じる体質(歯科治療で体験済み)なので、一度は拒絶したが、10分程の我慢と覚悟を決めて口に装着したのである。

最も苦しい辛い時間と思いきや、意識がその時より完全に無くなってしまった。気づいた時には、検査が終了していた。エッもう終わったの?と信じられない気持ちであった。鉛筆の太さの長いチューブが喉を通り胃にまで挿入されるので、苦しくない訳が無いと思っていたのだが、それが全くなく、というよりは完全に無意識のなかで検査が済んでしまったのである。

検査後、呼ばれて先生の部屋にはいると、撮影した食道や胃の写真を見せながら、説明してくださった。胃に軽い炎症部は見られるものの、食道と胃には異状は無いとの診断結果だった。また胃の炎症も治療する必要はないとのこと。外は曇って寒かったが、気分が晴れた気持ちで、医院を後にすることができた。

昨夜の夕食後、検査の為何も食べてはいない。が、相変わらず空腹感は湧かない。空いたお腹に優しい麺類がよかろうと、遅いランチに駅ビルのチャンポン屋に入った。

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2011年11月22日火曜日

古民家で思ったこと

終日雨天続きの翌日、一転陽気な秋晴れとなった週末の午後、都内もそろそろ紅葉の季節かと思い、自転車を駆って杉並区の和田堀公園に行ってきた。この公園は善福寺川に沿ったのどかな川の流れと周辺の樹木が楽しめる、近郊の隠れた緑のオアシスだ。約4kmにも及ぶ遊歩道があり、自転車を走らせるには都合が宜しい。春の花見、初夏の新緑、そして紅葉。初めてこの公園を訪れた時は雨上がりで、やや増水した川の流れが印象的だった。
銀杏には早かったが、他の広葉樹は色づき始めていた。今月末頃が紅葉のピークのようだ。上流の公園の端に行き着いたら、対岸に渡り下流にむかって緩斜面のコースを下る。
和田堀公園と善福寺川

出発点を通り過ぎ、さらに善福寺川に沿って下っていくと、杉並区立郷土博物館の標識を見つけた。何度もこの公園を訪れているのだが、博物館があるとは知らなかった。橋を渡り、狭い道を進むと、まもなくして長屋門が見えてきた。200年以上前に建てられたもので、この場所に移築されたようである。この中には、養蚕関連の展示品が置かれ、自由に見学することができた。拙者の幼少時分には、近所の農家や親戚で、蚕棚に飼っている蚕を見かけたものである。その後、一気に廃れてしまった。展示品は拙者の人生初期の記憶に確実に残っており、懐かしい。
杉並区立郷土博物館の長屋門

養蚕関連の設備機器(正面は蚕棚)

博物館の裏手は古民家があり、庭の周辺は鬱蒼としたケヤキやコブシの樹林に囲まれていた。江戸時代に建てられたこの住居は、長屋門よりも更に50年程古いが、かつて芦花公園で見た徳冨蘆花夫婦が実際住んでいた住居よりも広く、作りもはるかにしっかりしていた。中の囲炉裏では実際に火を燃やし、見学者はその周囲に膝まずき、たぶん地元の年輩ボランティアであろうか、男性説明員の話に耳を傾けていた。玄関を入ると土間で、台所になっており、当然煮炊きをする竈がある。やはり、拙者が10歳位までは、気仙の実家にも囲炉裏があり、江戸時代よりはマシなレンガで組んだ煙突付きの竈があった。燃料は当然薪である。電気はあったが、もっぱら照明用であり、プロパンガスは未だ無かった。このように、50年前までは、山から採取した木材が主力熱源だったのである。
古民家

囲炉裏

江戸時代の竈

高度成長の頃から家電製品が普及し、燃料は木から、電気・ガス・石油に変わってしまった。そして今では裏山は見捨てられ、森林は手入れもされず荒れるに任せた状態で、カモシカやアライグマが出没しては、畑を荒らし回っている。全国の沿岸に巨大な石油コンビナートが出現したのも高度成長期の頃であったと思う。そして、これとリンクするように、巨大タンカーも続々と就航していった。今となっては良いのか悪いのか判断しにくいが、日本も化石燃料である石油を大量に消費する時代を迎えてしまった。そして、これを前提とした都市づくりが行われてきた。狭い道には自動車が溢れ、明治時代からの今で言うエエコな市街電車は渋滞の元凶として嫌われ廃線となり、それらがよりエネルギーを大量に消費する地下鉄に替わってしまった。江戸時代までは低層の街並みが、百数十年後の今日では高層ビルがアチコチに出現し、エレベーターやエスカレーターが動き回り、人間の上下移動を助けている。エネルギー多消費が前提になければ考えられない都市構造になってしまった。そして、大都市の電力需要を満たすべく、遠方に危険な原発を建設し、田舎が放射能で汚染されてしまうという、実に皮肉な状況を迎えてしまった。

この古民家に通ずる伝統的生活を体験している最後の世代として、その後の驚異的な発展に、実は違和感を覚えていたことを告白せざるを得ない。そして、3.11で、その感を更に強くした。将来は、地球温暖化や人口爆発による食料不足が顕在化し、水不足も深刻な問題になることが予測されている。そして、これまでのエネルギー多消費経済を見直し、持続可能な経済システムについて関心が集まっている。この50年を実際に体験し、まったくその通りであると思っている。これまでの経済発展の恩恵は、地球規模で考えれば、日本を含む一部の人々しか享受してこなかった。今後、中国やインドなど多くの人口を抱えた国々の人々も、日本人なみの消費行動をとるようになったら、地球環境はどうなるのか、地球の資源は一気に枯渇しないのだろうか。まずは、平穏無事には済むことは有り得ないと思っている。

TPPにより関税を撤廃し、世界規模でより自由な貿易を目指すとする方向に進もうとしているが、それが持続可能な経済システムでありえるのか甚だ疑問である。自由経済とは、結局のところ世界規模でのマネーの追求である、と思っている。一応、「信用」を担保にした単なる紙切れの追求活動のために、本来あるべき産業が無くなっても構わないのだろうか。そしてまた、エネルギー多消費の経済活動により地球環境が乱されたのでは堪らない。

国内での交易は自由であるので、自由貿易経済の小規模モデルといえる。幕藩体制が崩れ、明治維新後の国内経済はどうなったか。都市の一極集中により多くの弊害が出てきているではないか。特に限界集落とか過疎の問題。そして食料自給の問題、また原発問題もその一つである。本来ならば、都市と農村が支えあって行かなければならない。ところが、いつのまにか都市の横暴といおうか、都市に都合の良い経済システムをとることで、地方は犠牲を強いられてきている。言わば、経済弱者は経済強者の犠牲になってきたのである。しかし、経済弱者が滅びれば、経済強者もいずれ滅びるのは確実であると思っている。何故なら、水も電気も、そして食料の多くが、田舎に依存しているからである。本来ならば都市と田舎は共存共栄の関係になければならないと思う。それが、今日では対立する状態に陥っている。

この小規模モデルから判断するに、世界規模での貿易自由化は、格差を更に助長するだけで、また環境も一層破壊するものと見ている。持続可能な経済モデルから全く逆行する行為と思うのである。

しかし、これまでの歴史からいっても、行くところまで行って破綻するまでは、進路を変えられないのが人間の性である。かつての大戦しかり、今回の原発しかり。人間は、特に利権が絡むと、国のことよりも業界の利益が優先されという、性懲りがない生き物である。政治家とか専門家の言うことは、せいぜい話半分に聞き、己の信じるところで生きていく他は無いようである。

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2011年11月14日月曜日

昔のジャンケン、他

TVの普及する前の昭和30年代、末崎の子供達は遊びに熱中したものである。その際に、順番や鬼を決めるジャンケンや、遊びでの文句や掛け声を半世紀前の記憶を辿り再現してみた。

ジャンケンの仕方:

)大人数の中で順番を決める場合:

「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!、そ~お・ヒッツ!、そ~お・ヒッツ!・・・」
と、勝負が付くまで繰り返される。都会的な「ジャンケンポン」は絶対に言わなかった。


それで決まらない場合は、人数の絞り込みに、次のカミ(パ)とイシ(グ)の二者択一式に変える。

イッペアッタコ、勝ッタ~アッコ、負けダ~アッコ、・・・(勝ッタ~アッコ/負けダ~アッコを順不同で徐々に加速していく)・・・」

「勝ッタ~アッコ」ではパーを、「負けダ~アダッコ」ではグーを出さなければ、負け組になる。ここで人数が絞りこまれ、また先ほどの「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!」が始まる。

2)二人で勝負の場合:

「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!」方式と、たまにはゲーム感覚で次のようにすることもある。
か~ぼちゃ撒いで(グー)、芽~出して(グーのまま親指出す)、は~な咲いで(ハサミ)、開~らいで(パー)、お~しゃ~しゃっか(その間両手を叩く)ヒッツ(グーを出す)、そ~お~ヒッツ(この時点で勝負が始まる)、・・・

連想歌:

丸山三角はたいて四角、
四角は豆腐、豆腐は白い、白いは兎、兎は跳ねる、跳ねるは蚤、蚤は赤い、赤いはホウズキ、ホウズキは鳴る、鳴るは屁!、屁は臭い、臭いはダーラ*、ダーラは担ぐ、担ぐは水、水は飲む、飲むは酒、酒は酔う、酔うは船、船は走る、走るは汽車、汽車は長い、長いはおやじの褌だ!!

*ダーラあるいはダラ:人糞のこと

名前はめ込み歌:

例えば:

「やす子」さんをからかう場合、
す子がつくりやのんすけ、ってられりコロサレた。」

「ただし」君の場合、
だしがつくりやのんすけ、ってられてりコロサレた。」

遊び(特に女子)の時の歌:

鞠つき:

イッチり~こらん、ニ~り~こらん、シンガラほ~け~ちょ、ちょんま~ら~ゲッ!!
地面に鞠を着いた時に、「イッチり~こらん」で鞠の上を片脚を振り上げ、次の「ニ~り~こらん」でまた振り上げ、最後の「ちょんま~ら~ゲッ!!」の時に、鞠を股間の下でバウンドさせ、お尻のところで背面キャッチする。女子の場合は、スカートで捕球するので有利である。

その他、お手玉や縄跳びの時の歌もあったのだが、断片的にしか覚えていない。
お手玉では「おひとつ、おひとつ、おひと~つ」と歌って、小豆の入ったお手玉を何個も器用に扱った。

縄跳びでは「波を越えて、お山を越えて、おやまのおやまのドッコイショ!」と言って遊んだような記憶がある。

あとは「はないちもんめ」とか「通りゃんせ」とかもあった。
前者は「勝~ッてうれしいはないちもんめ、負~けて悔しいはないちもんめ、・・・××さんが欲しい・・・」と歌ったような・・・。後者の「通りゃんせ」はよく知られた童謡のとおりである。

以上は、女童子(オナゴ・ワラシ)が遊びで歌っていたものである。近所には男童子が少なく、小学校に入るまでは、実は拙者、小学生のお姉さん方に混じって遊んでいたのである。

以上は、一定のメロディーがあり、音符にすればよいのだが、割愛する。

遊びも様々で、詳細は次の機会に紹介したい。

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2011年11月13日日曜日

TV普及前の子供達の生態

昨日、末中在京メンバーの第三回目の打ち合わせがあった。参加人数は、女5+2の計7名。中学卒業以来、参加が初めてというM子さんも馳せ参じで頂き、43年ぶりの再会を喜んだ。そんなことで、話しが主題にいったかと思うと、勝手にプライベートな話になったりと、フラフラ意思の統一がつかない中、「復活アルバム」の全体構成を打合せた。

来年1月までに、追加のスナップ写真や投稿文章を提供してもらうことにする。そして、次回の集合(218)時に、初回校正を行う。個人的には、来年5月の連休前には完成させ、被災者に直接手渡したい希望を伝えた。その予定で、制作は進みそうである。

そんな中、幼少時のジャンケンや歌などの話題になった。中には、全く覚えてないと言う者もいたのは意外であった。日常、遊びで使われ、歌われていたと拙者個人では思っていても、そうでないお方もいるようだ。

そこで、当時の遊びの事を記しておくことにする。特に、我々世代はTVの普及する以前の子供達の生態を知っている最後の世代といえる。参加者のY子もこのように言っていた。「近所に住む、2歳離れた妹と話していても通じないことがある」と。

TVの普及は、子供の生態を大きく変えた。それ以前は、外に出て徒党を組んで晩まで遊んだもので、TVが普及してからは、家に篭るようになってしまったのである。その分水嶺が、我々小学生の3-5年生位ではないかと思う。6年生の時は東京オリンピック開催の年で、それまでには、末崎町においても殆どの家にTVが入っていた。だから、あの時分の2歳のギャップは、意外に大きいのである。

TV普及前の、今は廃れたであろう当時の遊びなんぞについて、次回は紹介しよう。


PS:その頃の、前後の比較はこちらの記事で。
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2011年11月10日木曜日

不自由な自由貿易

TPP交渉参加の議論が突如として持ち上がってきた。

国際自由貿易の一つの手段なのであろうが、現状でも十分輸入関税が安くなっているので、以前に比べれば、遥かに自由に取引されているではないか。更に自由にする必要があるのかは甚だ疑問である。しかも、TPPには大国中国もインドも参加していない。参加国で、経済大国は唯一アメリカだけと言うではないか。

国により、地理的条件、気候条件、経済条件、等々夫々異なっており、それを一つの土俵で競わせるのは酷な話しと、拙者は思っている。例えば、マラソンランナーも走り高跳び選手も、皆100mで競わせたらどうなるか。100m専門ランナーにとっては宜しいが、それ以外を専門とする選手には溜まったものではない。極端な自由貿易とは、そのようなものではないだろうか。

島国日本は他国と海で隔てられている。川を渡れば外国の、大陸の国々とは全く異なる地理的条件である。これを無視し、共通のルールでやること自体が乱暴である。やはり、貿易関税により、国内の産業状況(例えば、農業、工業、金融)に応じて貿易量を微調整していくのが、国際経済システを安定維持していく上で、本来あるべき姿と思っている。先の例で言えば、100mランナー同志、あるいはマラソンランナー同志で競うのが本来の姿ではないのか。

何が何でも自由貿易。だったら産業廃棄物や原発からの使用済み放射性廃棄物も、取引の対象になってしまうだろう。経済弱国の国民やその子孫にとって溜まったものではない。それはちょうど、フクシマ問題と同じではないか。東京が一番電力を必要としているのに、危ないと知りつつ、原発をカネと政府権力で、東電管轄地域外の福島に建設させたことは、国内問題ではあるが、最後の責任を経済弱者にカネで押し付けるという、一つの自由貿易経済の弊害モデルと言える。

既に、自由貿易の弊害が顕著な産業がある。それは林業である。木材が自由化され、安い外材が輸入されたことで、国内の林業は疲弊し、山林も荒れるに任せているらしい。一方、輸出国側でも、山の民にとり、森林を乱伐されて生活が破綻していると聞く。東南アジアの山林ビジネスは華僑が牛耳り、伐採し尽くせば別の山域に移動しまたそこを乱伐する。そこに代々住んできた地元住民にとり大変迷惑な話しである。極端な自由貿易とは、結局お互いを不幸にし、さらには地球温暖化問題にあるように、人類生存の危機を招来するとも限らない。事実、人類生存に不可欠な熱帯雨林の破壊は、自由貿易にその一因があり、日本もそれに加担していると言える。

また、疲弊した国内の林業につけ込み、外国資本が国内の森林を密かに買い漁っているというのも不気味である。貴重な水資源が、将来投機対象になる可能性も無視できない。水源の山域と海に流れる河川周辺を買い占めてしまえば、その流域の水は、下流の海岸に停泊した巨大タンカーに吸い込まれ、水を必要とする大陸まで運ばれていくことも考えられる。これも自由貿易の下であれば文句は言えないのである。

TPPを議論する以前に、国際共通の課題である地球温暖化を抑制する経済モデル、あるいは今回顕著になった脱原発を目指すための経済モデルを真剣に検討すべき段階である。その一つが、エネルギー節約の地産地消経済モデルが注目されている。これらの問題を全く無視し、地産地消経済モデルとは対極と思われるTPPの議論に突っ走ってしまうのだから呆れてしまう。

産業界は、地球の生態系を乱す程の膨大なエネルギーを消費してまで、国際貿易で大儲けを狙おうとしている。ならばもっとイージーな方法があるではないか。為替取引の政府介入である。予めその日時をリークしておければ、寝転びながらでも皆儲けられる筈。国家絡みのインサイダー取引?自由貿易を標榜し、一方で為替介入。為替相場を混乱させるのは、元々インチキではないのか。こういう政府に、自由貿易を主張する権利はないと思うのだが・・・。


為替相場の政府介入(円/ドル)
昨年から3度の大規模介入。これで自由貿易を主張できるの・・・?

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2011年11月7日月曜日

再び神田古本祭

先週の事になってしまうが、神田古本祭りの最終日にまた自転車で出掛けた。前回だけでは回りきれず、また欲しい本が見つからなかったこともあり、再トライしてみる。

80年前のスクラップ記事:

前回の続きで歩き出す。古本屋街の中ほどにパソコン検索サービスがあったので、欲しい本を検索してみた。一軒あったので、きた道を少し戻り、ビル2階のその書店に行き書架を探し回ったのだが見つからなかった。店番に尋ねると、離れた倉庫にあるとのこと。パソコンの在庫品の該当箇所を覗くとぎょっとした。非常に高価だったのである。古本収集の趣味はないので、貴重な初版本である必要はない。購入を断念する。
同じフロアに、内田魯庵の「思い出す人々」があった。分厚く、しかも相当の古本である。紙質は悪く、製本も不揃いなこの本を書棚から取り出してみると、出版が大正14年となっていた。初版本である。当然、関心は「最後の大杉栄」である。その頁を探すとすぐに見つかった。というのは、その章の最初の頁に、新聞の切り抜きが挿入されていたからである。二つ折りになっていた。開いてみると、目のパッチリした和服姿の若い女性の写真が目に入った。誰だろうとその記事を読むと、大杉栄・伊藤野枝夫妻の愛娘、魔子そのひとであった。新聞の発行日は昭和12210日。虐殺事件から14年後、二十歳前後の写真だったのだ。その裏面にはフクちゃんの漫画が掲載されていたので、朝日新聞であろうか。本の持ち主が、この記事を切り抜き、そして挿入していたのに違いない。80年近く前の新聞ではあるが、写真が意外と鮮明であるのに驚いた。古本を探していると、時々こういうことが起きるのは嬉しいので、ブログに報告しておくことにする。

入手の古本:
 「蘆花徳冨健次郎(全三巻)(中野好夫)、「黒い眼と茶色の目」(徳富蘆花)、「同時代の作家たち」(広津和郎)、「父広津和郎」(広津桃子)、「座談会 明治文学史」、「時は過ぎてゆく」(田山花袋)


最大の収穫は「蘆花徳冨健次郎」であろうか。全1400頁にも及ぶ大著であるにも拘わらず、最終日半額セールのお陰で全3巻、450円で入手できた。たまたま著者の娘の回想録を立ち読みし、蘆花評伝について言及されていた。舗道の店舗を見ていると、それと思わしき三巻の本を偶然見つけたのだ。

蘆花と言えば、京王線の芦花公園駅が知られている。徳冨蘆花の作品となると、一般には「不如帰」くらいしか知られていない。今日では、殆ど読まれていない作家の一人であるらしい。しかし、彼の旧居が、さらに周辺の土地が都によって買収され、今日では広大な都立「芦花公園」として整備されているのは尋常のことではない。通俗小説の作家としては、考えられない計らいである。彼の熱烈な信奉者・支援者無しでは、今日の芦花公園は存在し得なかったと思う。戦前、当時の人々に多大な感銘を与えていたに相違ないはずだ。この公園には、彼の旧居「恒春園」だけでなく、地区の共同墓地があり、また蘆花夫妻のお墓もある、実に不思議な都立公園なのだ。
芦花公園の蘆花旧宅「恒春園」

蘆花の作品で、拙者が最初に読んだ小説は「思い出の記」である。旧字が混じり、現代人には読みにくいかも知れないが、実に面白い彼の自伝的長編小説だった。藤村も漱石も登場する以前に書かれた長大な作品である。その後読んだ「不如帰」にくらべ遥かに優れた作品であることは言うまでもない。大正期頃まで、青年に愛読された小説であることを知った。その後、蘆花以降の世代の作家の回想録を読むと、「思い出の記」が時々出てくる。江口渙は13歳でこれを読み小説に興味を持っている。また、その日たまたま大宅壮一の日記を立ち読みしていると、大正6531日に「これまで読んだ中で一番面白かった小説は「思い出の記」」と記していた。大宅壮一18歳の頃である。彼にしてもそうだったのだ。

「黒い眼茶色の目」を見つけたので購入。蘆花の同志社入学時代の恋愛事件をモチーフにした小説である。再来年のNHKの大河ドラマは、新島八重(新島襄の妻)のようである。八重の姪との恋愛に激しく反対され、やけになって同志社を出奔した蘆花が、このドラマにも登場するのであろうか。NHKの大河ドラマは殆ど見ないが、ちょっと興味のあるとこれではある。

前回そして今回と古本を仕込んだので、暫くは楽しめる。

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2011年10月30日日曜日

自転車ぶらり:神田古本祭、ほか

今週末は、台東区の一葉記念館に行くことにしていた。昼食後、自転車に乗り向かったのではあるが、日の短い昨今、帰りは暗くなることに気づいた。着脱式ヘッドランプは置いてきてしまった。それに空模様も怪しげである。毎度のことながら、本日の目的地を変更する。


時代の変化:

新宿駅南口の雑踏が、御苑手前の都立新宿高校まで続いている舗道を通過する。高校案内のようで、校内には父兄(とはいっても殆が母親)が行列をなしている。高校も、いよいよお受験ブームか。随分異様な光景である。

四谷駅前を通過し、九段まではできるだけ平坦な道を選ぶ。この坂を下り、首都高下の橋を渡ると、見慣れた神保町外れの街並みである。ここには、10数年間時々来たものである。というのは、DTP(デスクトップパブリッシング)データの大手出力サービスセンターがあったからである。マッキントッシュ・パソコンでレイアウトしたデータを、印刷用製版フィルムに4色分版出力してくれる。当時は、DTPの黎明期であり、出力不能のフォントが紛れ込んでいたり画像リンクが外れていたりと、いろいろトラブルが発生したものである。締切期限が迫り、ドキドキしながら原稿の出力結果を祈るように、近くの喫茶店に入り暫し待っていた。大通りの反対側にあるその1Fのオフィス付近をみたら、どうも様子がおかしい。横断歩道を渡り、そのビルの前にくると、賃貸の案内である。少なくとも数年前までは、Macパソコンが何十台も整然と並び、周囲には高額な出力関連機器が置かれ、何十人もの専門スタッフが働いていたオフィスである。それがもぬけの殻なのだ。最近の印刷前行程は、製版フィルム不要のCTP(Computer to plate、直接製版)の時代に完全に移行したようである。印刷データをPDFに変換。そして、地方の印刷会社にメールで送信すれば、中2-3日程度で高品質の印刷物が宅配便で届くようになってしまった。しかも低料金である。高い都心の家賃では、かつて隆盛をきわめた出力サービスセンターとはいえ、ビジネスとして成り立たなくなってしまったのである。


神田古本祭:

その賃貸に出されたオフィスの側で女性が電話していた。よく見ると、見覚えのあるお顔である。向こうも気づいた。かつて拙者の近所にあった中華レストランを手伝っていた上海出身の娘さんである。神保町にも出店したことは聞いていたが、この賃貸に出されたオフィスの隣がその中華レストランとは奇遇であった。彼女、神田の古本祭に来たものと思ったようである。古本屋街方面を見ると確かに多くの人が集まっている。彼女にいずれの来店を約し別れ、予定を又々変更し、古本探しをすることにした。



何店舗も回ったが、目指す本はなかなか見つからないものである。が、以下の古本4冊を入手した。

一葉日記*、湛山回想、東京の三十年(田山花袋)*、生い立ちの記(島崎藤村)
    (*は以前読んだことがある本)

本日は一葉記念館にいく予定だったので、一葉日記とは丁度よい。以前読んだものは一部省略されていた。完全版であるのは嬉しい。湛山回想は、石橋湛山の回想記である。明治、大正、昭和と、暗黒時代を生き抜いたジャーナリストの人生の軌跡と思われる。同じ、リベラルのジャーナリスト、清沢洌の戦時中に密かに記録していた「暗黒日記」において、湛山を次の様に評価している。

日本は戦争に信仰を有していた。日支事変以来、僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戦争論者であった。・・・・事実、これに心から反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾君ぐらいのものではなかったかと思う。(昭和1943)

花袋の「東京の三十年」は、明治文壇の貴重な回想録である。再読してみることにする。


帰路:

2時間程、古本屋街をうろつき回る。暗くなる前に、往路とは別の道を辿り家路につくことにする。北の丸公園に出る。皇居のジョギングコースから車道を隔てた右手の小高い丘の洋館を以前から気になっていたのだが、初めて立ち寄ってみる。国立近代美術館の工芸館となっていた。以前から、旧軍関係の建物とは思っていたのだが、やはり旧近衛師団指令本部であったのだ。建物の右下には馬にまたがる銅像があった。誰だろうと近づいてみると、なんと「北白川宮能久親王」である。これも意外であった。というのは、吉村昭の歴史小説「彰義隊」の主人公、輪王寺宮その人だったからである。公には、台湾遠征中に病死したようだ。だが、江口渙の説では、実は峠で狙撃されたらしい。皇室出身の高貴な軍人が狙撃されたとは責任問題に発展しかねないと、死因を病死にして発表したというのである。真実は果たしてどちらかであろうか。後者の方が説得力があると思うのだが・・・。
  旧近衛師団司令部と北白川宮能久親王像


雑踏の新宿を回避するため、信濃町駅から神宮外苑を行くことにする。多この人が一方向に歩いて行く。CMシリーズのヤクルト:巨人の二戦が夜あることに気づいた。神宮球場近くに寄り道する。やはりそうである。野球のファンは年配層とマスコミでは言われているが、どうしてどうして、若い世代、しかも女性ファンが意外と多い。マスコミ報道もいい加減である。おそらくサッカーを比較してのことだろうが、こちらはプロ化して未だ20年である。比較するのがおかしい。また、同じ球技といっても、ゲーム形態が全く異なる。野球の良さは、誰でもがヒーローになれるチャンスがあることだ。非力のバッターでも、打席に立てば、ゲームの主人公である。野球はカラオケ的である。歌が下手でも、マイクを握ればコチラのもの。誰も聞いてなくても、大声で歌って気持ちよくなればよい。カラオケ好きの多いこの国には、野球がよく似合うと思うのである。
 神宮球場前の雑踏:クライマックスシリーズ第二戦前(ヤクルトvs巨人)


夜の帳が下りる前に帰着することができた。走行距離は10-15km程度くらいか。紅葉にはまだ早い都心のサイクリング。疲労感が心地好い。

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2011年10月20日木曜日

歌との再会

O高在京OB会に参加の20代の一人が、ピアニストN氏であった。地元では新聞報道等で知られているようである。夕方、別の飲み会を終えて帰宅し、彼のサイトにアクセスしてビデオ演奏を聴いてみた。知らない曲だが、男性的な力強い演奏が印象的である。今後の活躍を期待したい。

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音楽付いてきた勢いで、YouTubeを気ままに検索しては音楽ビデオを聴いていた。気がついた時には、2amを回っていた。床に就く前に、最後の検索を試みてみた。探し求めていた、まさにそのシンガーと曲が見つかったのである。シンガーは英国のクレオ・レーン、曲は「He was beautiful」。今では、「カヴァティーナ」もしくは「ディアハンターのテーマ曲」として知られているが、彼女の歌うこの曲は以前にはアップされていなかった。

35年程前に、当時若手No.1クラシカルギターリストのジョン・ウィリアムズの伴奏がフューチャーされたLPを発見した。シンガーは、拙者には初耳のクレオ・レーン。収録されていた曲は、ビートルの「エリナ・リグビー」、ボサノバの「ウェーブ」、「フィーリング」、「キリング・ミー・ソフトリー・ウィズ・ヒズ・ソング」等で、いずれもお馴染みのポップなナンバー。ジャズ、ボサノバ、そしてクラシカルなサウンドがミックスした軽快なギターとバンドによる伴奏、そして彼女の自由奔放かつ繊細な歌声に聞き惚れたものである。 その中でも、始めて耳にするこの「He was beautiful」が、特に拙者のお気に入りとなった。

それから数年後のことと思うが、映画「ディア・ハンター」を見ていたら、ジョン・ウィリアムズのギターソロとオーケストラによるテーマ曲が、クレオ・レーンの歌った「He was beautiful」と同じメロディーで流れてきたのである。

以来、「ディア・ハンターのテーマ曲」として、特にクラッシック・ギターのスタンダード曲として演奏されるようになった。が、彼女の「He was beautiful」はあまり知られていないようだ。LPプレーヤーも無い現状、レコードも田舎の実家で死蔵されている。何十年振りにこの曲に接し、探し求めていた昔の親しい友人にやっと出会えたような、そんな感じである。どなたか、この佳曲をアップしていてくれた、感謝である。

→クレオ・レーンの歌う"He was beautiful"

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ところがである、この曲がTVの「真珠夫人」主題歌に使われていたことを検索で先程知った。YuoTubeで視聴したところガッカリである。同じ曲、同じ歌詞でもこれだけ違うのかと、この落差に驚いた次第。聴かなきゃよかった・・・。

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2011年10月19日水曜日

O高募金活動報告

江口渙の「少年時代」の報告を一時中断。

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気仙のO高在京OB会に、震災後ということもあり、10数年ぶりに参加した。
参加者は30-40名程。殆どが拙者よりご年配の方。30代と40代はゼロ。例外的に20代が2名参加。議事内容については取り立てて報告することも無いが、最後に副校長殿より、被災生徒への募金活動等の報告があった。それが次の通り。
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在校生の犠牲者は2名、その他親を無くしたケースも多いとのこと。

募金協力者:580
合計金額:620万円
今期目標額:700万円
*現在も毎日のように入金がある。

義援金の使途概要は、部活動費・遠征・宿泊費の補助、修学旅行の補助、センター試験の旅費・宿泊費の補助等とし、随時利用したいとのこと。修学旅行については、一人当たりの参加費は85000円で、全員参加を目指す。センター試験は190名程受験の予定。

そして、募金活動は3年間継続したいので、その間宜しくとのこと。
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OOBは、当分は仕事帰りの一杯をお控えなすってご協力の程をと、拙者からもお願いしたい。

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2011年10月11日火曜日

続2: 竹橋事件

大和魂も精神力も通じぬ近代戦で国土が焦土と化し、無条件降伏を受け入れざるを得なかった我が国が、一歩誤れば世界の地図から「日本」というニ文字がかき消されてしまう危うい危機的状況に陥った。これは、文明開化の明治維新から僅か77年後の事である。この77年間の何時何処で、昭和208月の暑い運命の日に向かって突き進むようになったのであろうか。歴史は複雑怪奇である。が、この肝心な事が拙者の頭の中で整理し得ないもどかしさがあった。これが、江口渙の「少年時代」を読み、多少は解消されたのである。

文明開化の明治維新、これを象徴する五箇条の御誓文の一つ「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の精神。これがいつどのようにして反故にされてしまったのか。「少年時代」の作者江口渙は、明治11年は発生した竹橋事件に端を発しているとみている。


竹橋事件(明治11)は、作者が生まれる9年前のことである。近衛砲兵隊の一部が、西南戦争(明治10)の差別的処遇が引き金となって暴動を起こした事件である。確か田山花袋の回想記だったと思うのだが、この騒動の銃撃戦音を遠くで聞いている。皇居を守備するのが近衛兵。そのお膝元の兵の反乱に、軍の上層部は大きな衝撃を受けた。これを反省し、数年後に軍人勅諭が発案され、軍の厳しい統制が確立されたというのである。曰く「上官の命令は、天皇の命令」と。後年、戦時中においては無謀な作戦と知りながら、上官の命令には逆らえず、多くの皇軍兵士が犠牲となったことは周知のことである。また明治22に発布された帝国憲法では、天皇が軍を統帥することに定められた。竹橋事件以降、昭和の時代を不幸に陥れる小細工が次々と仕組まれていったのである。考えてみれば、先の大戦の指導者の多くは、作者と同じ明治中期生まれである。かれらの精神構造は、保守反動の時代の流れで醸成されていったものに違いない。

政府に統帥権が無いのを良い事に、軍が独善的な (軍事)行動を取り、大陸においては侵略戦争を仕掛け、国内では言論・社会活動を厳しく監視してきた。旧軍の厳しい統制や統帥権の帰属が、この竹橋事件に起因していたとは意外である。今日、一般には忘れられた事件だが、実は戦前の悲劇の歴史の起点となった事件というこのになるのだ。

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もう一つ、同時代の人物による証言を紹介しておく。やはり拙者の疑問に応える内容につき、メモしていたものである。江口渙よりも20歳年上の評論家、内田魯庵(慶応4-昭和4)が、大正10年頃の随筆集「貘の舌」に、明治維新の改革とその後の保守反動の様子を、皮肉をまじえて次のように記しているのである。

  1. 改造の議論は喧しいが、断行の勇気ある者が一人でもあるか。維新の改革者は皆真剣だった。議論するよりは直ぐ実行だ。そのテキパキしたやり口はロシアの過激派ソックリだった。若い伊藤や大隈が牛耳を取って所謂築地の梁山泊は当時の過激派の牙城であった」と、当時の覇気のない政治と対比し、維新の改革の凄まじさを述べている。
  2. 50年前旧弊の冷罵に葬り去った封建の風俗習慣はおろか、思想までイツとなく復活して来た。」この例として、次のように列挙している。「武士が無いのに武士道、古美術の高価な売買、伝統行事。」そして「このまますれば、日本全国が古い風俗習慣や思想や信仰の活きたミイラと化石してしまうのも余り遠くはなかろう。改造どころの沙汰じゃない」と皮肉っているのである。そう言えば、将校の記念写真を見ると、皆誇らしげに軍刀を脇に抱えている。維新の廃刀令が、軍人特権かどうかは知らないが、完全に反故にされ、まるで江戸時代の武士のマネ事ではないか。
  3. こんな何でも無い説でさえ今ではウッカリ云えないのだ。何でも日本を世界一の強い国世界一の人道国、万邦無比の神州と盛んにお国自慢をしないと忽ち非国民扱いされる。まがり間違うとぶんなぐられる」と、大正10年頃、既に戦前の軍国主義的思想が一般社会に浸透していたのである。一方で、その当時世は大正デモクラシーと呼ばれているが、本当だろうかと疑わざるを得ないのである。
  4. 立憲国という有難い国となってからが却って言論が不自由になった。我々売文舌耕の徒は虎の尾を踏むように戦々兢々としてコンな事を書きながらもビックリシャックリだ」とペンを置いている。五箇条の御誓文「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の精神が、帝国憲法によって完全に反故にされたのである。
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日本丸は、明治維新を迎え文明開化と改革断行に大きく舵を切った。ところが、維新の三傑(西郷、木戸、大久保)が逝った直後に発生した竹橋事件を境に、保守反動側に徐々に舵がきられていった。そして、その舵が修正されることなく巨大な氷山に向かって加速していった。拙者の疑問、「いつから軍国主義が醸成されたのか?」。その一つの回答らしきものが、江口渙の「少年時代」から読み取れたのである。

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2011年10月6日木曜日

続1:金次郎像

「少年時代」の作者(江口渙)の大学生時分、親戚に91歳と随分ご高齢の老婆がいた。彼女が14-15歳の頃に、来村(現在:栃木県烏山市)した二宮尊徳(1787-1856)を直接見ているというのである。どんな立派な御仁かと期待したところ、薄汚い爺様に随分ガッカリしたという回想を、作者は本人から直接聞いている。また周辺の古老の間では、二宮尊徳のよからぬ噂があったらしい。尊徳は農政家として知られている一方で、高利貸の面もあったというのである。作者は、二宮尊徳は偉人どころか一代の「くわせ者」とみているのである。

問題は明治に入ってからである。そんな彼の実像(作者の視点)とは裏腹に、何故に二宮金次郎像が全国の小学校にあるのだろうか。拙者の通った末崎小学校にも金次郎像は、正面玄関(教職員だけが利用)の左側にあった。朝礼の時は、金次郎像と向かい合う位置関係になる。



戦後民主主義教育が国の隅々迄行き渡った当時、金次郎像が何故あるのかは誰も説明してくれない。拙者の祖母以外からは、金次郎の話を聞いたこともなければ、授業で取り上げられる事もなかった。薪を背負い読書する子供の姿は、模範的態度とも思える。金次郎の生きた昔程ではないにしても、当時は子供でも農作業や漁業の貴重な労働力だった。学業と仕事の手伝いの両立は当たり前で、その理想像が金次郎と勝手に思っていたのである。まあ拙者の場合、学業はほったらかしではあったが・・・。

だが作者の見方は違う。尊徳の高弟が書いた伝記「報徳記」を、時の農商務大臣、品川与一郎(在任期間:明治20-25)が読んで感動し、文部省がこれに追随して国定修身の教科書に採用したらしい。これを見て、上には弱く下には強い当時の教育家が出世競争で金次郎像を広めたというのである。しかも、銅像では高価なので、安いコンクリート製のものを大量に生産した。その一つが、我が末小の金次郎像である、おそらく。全国の小学校の校庭に、同時期に一斉に据えられたのではないだろうか。

金次郎像の最大の目的は、「地主のために身を粉にして働く農民、資本家のために命をすりへらして働く労働者を作ることにあった」と作者は述べている。作者らしいマルキスト的解釈ではある。モデルとなった二宮尊徳が偉人かどうは、評価の別れるところであろう。もっとも、歴史的人物の評価は単純ではない。人物の評価は、時代とともにコロコロ変わる。本人の実像は知らないが、金次郎像そのものは、戦後世代の我々には人畜無害であり、また勤勉・勤労の姿勢は学校教育の基本でもあろうから、それほどムキに批判すべきものではないと思うのだが。むしろ、受験戦争で小さい時から塾通いの方が問題である。皿洗いや掃除くらいはさせるべきではないか。むしろ、金次郎を見習えと言いたいのだが。

そこでニューバージョンの金次郎像を提案したい。薪を運びながら、将来ミュージシャンを目指し寸暇を惜しんでギターを引いている金次郎像はどうだろうか。ちょっとアナクロにはなるが、自然エネルギーの見直しで、将来薪も重要な再生エネルギーと見直される可能性もあるので、薪運びとギター弾きの金次郎像。これなら、文句は無かろう!?


追記:
作者の晩年1970年代までは、「資本家」対「労働者」の対立関係で捉えられたものである。だが、今日では「正規労働者」対「非正規労働者」、言わば労働者内に、皮肉であるが階級が発生している。同一労働同一賃金。だが、非正規労働者の差別的待遇を尻目に、正規労働者が既得権益を享受している現実を知ったら、かつて命をかけて闘った労働運動の先人達は、草葉の陰でどう思っているであろうか。

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2011年10月5日水曜日

江口渙:少年時代

江口渙(1887.07.20 (明治20) 1975.01.18(昭和50))の遺作「少年時代」を読み終えた。これが実に面白い。

歴史は門外漢の拙者にとり、明治という時代が、この本程身近に感じさせてくれる書物に出会ったことはなかった。作者は明治20年生まれ。全42章からなる回想録は、1971から書き始められ1974年末に完成。そして、翌年1月に87歳の生涯を終えている。お恥ずかしいながら、拙者遊びボケていた学生時代、その同じ頃、最晩年の4年間「少年時代」との格闘の日々であったようだ。この回想録は、生前の幕末期頃から明治32年の東京府立一中入試に合格するまでとなっている。
 少年時代:全42章の目次

実は最近まで、江口渙という作家を知らなかった。全集が無く、今ではあまり読まれない作家らしい。ネットで何か調べていて、「小林多喜二の死に際しては葬儀委員長をつとめ、それを理由に検挙された」人物としてその名を知ったのである。そこで、代表作位は読んでみようと思い立った。先ずは回想録が面白かろうと、代表作の「わが文学半生記」を、いつも利用している渋谷区の図書館蔵書を検索してみた。ところが蔵書に無い。そこでヒットした数少ない著書を調べ、「少年時代」に目が止まった。総頁数560、読み応えは十分有る。と、そう思い予約したのである。

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拙者が物心ついた小学生の頃、近所・親戚の古老といえば明治20年代生まれだったような気がする。というのは、拙者の祖父母が明治30年代生まれなので、彼らより10年程年上の世代である。だが、彼らから明治の頃の話を聞いた記憶はない。都会から遠く離れた三陸の地は、歴史の教科書に扱われる程の事件が起こりうることは先ず無かった。日清・日露戦争に従軍したという話も聞いたことがない。明治29年に発生した三陸大津波の体験者さえも知らない。個人的には、あの頃でも明治とは遠い昔の時代のように思っていたのだ。

明治20年生まれの作者は、拙者が知る近所・親戚の最古老と同世代ではあるが、歴史の表舞台に近いところで幼少期を過ごしている。父親は、幕末に14歳で会津討伐軍にかり出され、その後東大医学部で森鴎外らと学び、伴に陸軍軍医として出世コースを歩んでいる。東京で生まれた作者は、父親の転勤にともない、幼児・少年期だけでも東京→大阪→熊本→小倉→東京と移り住んでいる。その時々の生活・事件・イベント等を直接見たり聞いたりし事を、恐るべき記憶力と「歴史」を見る鋭い目で、回想しているのである。明治を直接知る人物だけに、「少年時代」は幕末期から明治32年頃までの時代の、正史に隠れた証言記録ともいえる。

彼は「歴史」について、文中でこのように書いている。

「歴史」と対決する場合、裏にかくされている「実像」と表に残される「虚像」とを見分けるだけの正しい科学的な追求と、鋭い直感とを併せ持っていなければ「真実」はわからない。

本書全体を通じこの精神が貫かれ、昔を懐かしむ懐古趣味は無い。歴史の裏に隠された「真実」を鋭くあぶり出しているのだ。そこが出来合いの歴史書とは異なる点であり、それだけに色々発見があって面白い。

本書の内容を一部、日を改めて紹介することにしよう。
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