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2011年9月30日金曜日

発電:異業種からの参入

唯一講読している日経産業新聞に、発電コスト比較値が掲載されていた。(9302)原子力、天然ガス、石炭火力、石油火力、大規模水力、太陽光、風力ときて、だが、バイオマスと地熱はどういう訳か無い。最も環境に優しい発電法が省略されているとは嘆かわしい。放射能やらCO2やら産業廃棄物を大量に排出するのが、産業界ではお好きなようだ。致命的な問題を抱えているものばかりが列挙され、選択肢を狭めようとしている意図が感じられてならない。

 (木質)バイオマス発電は、総発電量の点では程々らしいが、多くの副次効果が期待できる。特に、森林資源の再生である。そして産業の少ない中山間地域の雇用を生み出すことも期待できる。森林は人類の宝である。乱伐することなくきちんと管理することで、森林資源は枯渇することがない。燃えカスは肥料にもなる。自然との循環にマッチした発電法である。それなのに無視されるのは納得できない。

等々思いつつ他の記事に目を移すと、同じ紙面に「群馬のバイオマス発電所始動」のニュースを発見。「木質チップ、3番目の出力」の見出しで、オリックスが約96%と殆ど出資した発電所である。木質チップ年間使用量約13万トン、出力13600kW。太陽光や風力の自然エネルギーとは異なり、安定した発電が可能である。スマートグリッドで消費電力をリアルタイムで管理し、ピーク電力を抑えるようにすれば、これだけの出力でも近在の町や村落の電力は十分賄えると思うのだが。

新旧交代のパラダイムシフトが起きている時、守旧派が立ちはだかるのは歴史の常である。電力会社による市場独占は、技術革新の普及を阻害している。オリックス等、異業種からの参入は面白い。
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2011年9月29日木曜日

お米の直販

コメ農家の義弟から電話があった。先日紹介したコメ屋さんに直接コンタクトしたところ、スムーズに話しがまとまったらしい。その報告であった。

古米60kgと新米300kgを玄米で納める事になったという。新米300kgとは予期せぬ嬉しい結果である。当初、消費者が放射能汚染に神経を使っているというので、新米は見合わせるのかなと思っていたのだ。岩手県で放射能汚染レベルを調査したところ異状値が観測されなかったことが公表されているらしい。当初の懸念も、岩手米については杞憂であった。

コメ栽培に従事していた彼のオヤジさんが倒れ、先祖伝来の田圃を見捨てる訳には行かず、仕事の合間に農業を引き継いだ。作ってはJAに納めていたのではつまらない。やはり顧客の喜ぶ顔をイメージしなければ、農業をしていても張り合いが湧かないのだと思う。電話で話した時、レストランにでも直接卸せたらと話していた。そこで、近所の知っているコメ屋さんにその話しを持ちかけたのである。

それが意外にもトントン拍子と言おうか、一度電話しただけで話がスムーズにまとまったのである。これに気をよくし、一層ヤル気がでたらしい。来月上京し、他のコメ屋さんも回ってみたいということになった。で、一緒に付き合うことを約束したのである。

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日本の農業を守るためにも、後継者の育成は重要だ。ただ、栽培法だけではなく、顧客にダイレクトに供給するノウハウも養成していく必要がある。ITやスマートフォンが利用できる時代だ。都会から遠く離れた農村も、もう片田舎とは呼べない。農家は、農村でただ作るだけの下請け作業から脱皮しなければならない。自立を促すことで、農業に張り合いが出てくるはずである。生産からマーケティング、そして販売と、農家自らオールラウンドでやっていくことで、農業は面白い仕事であることが認識される。そして若い後継者が、確実に増えていくと思う。
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2011年9月28日水曜日

サンマ便り

クジラやマグロ食えなくても困りません。だけど、サンマ食えなきゃ困りますぜオニイサン。
復興さんま直送便

ご安心を。漁業復活第一弾、恒例のサンマ直送便の季節に成りました。田舎の瓦礫の中から、復興の笑い声が届いてきました。還暦過ぎの同級生達がお手伝いに馳せ参じています。大船渡町のガレキの中のプレハブで、復活の気炎を上げています。お孫さんの描いたお店のカンバン可愛いですね。
届いた手作りチラシ

震災後、東北新幹線は一ヶ月で全線復興した。仙台の国際定期便はやっと先週復興したようだ。儲かるところから復興している。儲からないところは後回し。JRロール線はガレキの処理は済んでも、再建はいつになることやら。以前のようには、列車でのんびり帰省できないのが残念である。観光客も少なくなるだろう。儲からない田舎の交通インフラは後回し。経済優先の時代、致し方無いか。でも、逆境に文句ばかりでも前進なし。儲かるところからドンドン儲かって行きましょう。ドンドン買ってください復興サンマを。

大船町のお隣、我が末崎町は「鮮魚シタボ」の直送便もお忘れなく。ブログもあるよ。先日紹介した「サンマのすり身汁」は、祖母様・母上様からシタボママへの直伝レシピです、たぶん。

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2011年9月26日月曜日

毒入マンジュウを食う覚悟

田舎の親戚からコメが沢山送られてきたのは以前に報告した。大口の需要があれば、今後コメを直販しても構わないとの生産者の仰せ。そこで、知っている近所のコメ屋さんに立ち寄った。

個人農家からの取り扱いも可能とのこと。ただ新米については、放射能汚染の問題で農家からの直接仕入れは、現状難しいらしい。JAを通すのであれば検査してから出荷するだろうが、個人レベルでは放射能汚染チェック設備はない。これがネックなそうだ。

殊に、若い奥様方は大変神経を使っているらしい。妊婦や幼い子供の健康を考えれば当然である。近所の幼稚園でも同様らしい。多くの園児を守る責任がある。いくら国が「直ちに健康に及ぼすレベルではない」と空念仏の如く唱えても、誰もマトモに信ずるものはいない。ましてや、放射能に対して影響を受けやすい胎児や子供達であり、親の責任として当たり前の行為である。過剰反応と一笑する訳にはいかない。むしろこのことに配慮を欠いた国当局者の頭の方が狂っている。

コメの話はここで中断した訳ではない。古米ならむしろ在庫が不足し、できれば欲しいということであった。そろそろ今年の新米が流通する頃である。子供を抱えた親たちは、古米を求めて奔走するとも限らない。

ただ思うのだが、コメは、葉や茎を食す野菜に比べ放射能汚染の影響が出にくいのではないだろうか。コメは籾殻で覆われているぶん、放射能の浸透は少ない。また、水田の特性もある。田圃の水と一緒に放射能は河川に流されるので、畑に比べ残留放射線濃度が早く減衰するのではないだろうか。そんなことで、コメは放射能汚染を受けにくい農作物と思うのだが。シロウト考えではあるが・・・。

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食うものが無ければ、多少毒が入ったマンジュウでも食わなければならない。原発を利用するということは、この毒入りマンジュウを食う覚悟でなければならない。

大量の電気を消費して毒入りマンジュウを食うか、電気の利用を減らし、多少は生活が不便になることを覚悟の上で、毒の入ってない安全なマンジュウを食うか。長期的な視点に立った現実的な選択肢は、この二つしかない
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2011年9月25日日曜日

美味:サンマのすり身汁

高校の先輩が電話をくれる。「サンマ直送便」のチラシを送信するので、アドレスを教えてくれとのこと。未だ届いていないが、大船渡の仲間の復興支援に自前で制作したようだ。拙者の同級生にも、高校卒業後に地元で鮮魚店を始めた者がいる。今回、店舗と住まいを流され仮設住宅に移っているその彼を訪問し、話す機会があった。その時、直送便の取扱量が店舗販売よりも遥かに大きいことを知ったのである。FAXと宅配便の普及が、これを後押したのであろう。また地元碁石海岸には、全国から観光客がやってくる。このような環境が、彼の仕事を拡大させたようだ。サンマ直送便の季節になれば、懇意にしている全国の方々から注文が入るらしい。震災復興の先駆けとして、この直送便に期待していた。

沿岸育ちの拙者、実は生魚はあまり好きではない。子供時分、親戚・近所から頂いた新鮮な魚を、血生臭いぶつ切りの刺身にして連日食べさせられたものだ。冷蔵庫がない時代なので、生で食うのが手っ取り早い。これには正直閉口したものである。拙者の場合、魚は焼くか煮るかに限る。サンマは焼いて食うので好きである。また、サンマをすり身にし、醤油味の汁で食べるのが更に美味い。ところが、上京し長年住んでいる東京では、このサンマすり身汁にお目にかかったことがないのである。三陸の郷土料理なのかも知れない。
 サンマのすり身汁
(写真は「鮮魚シタボ」サイトより転載)

「サンマのすり身汁」のレシピを検索しても、なかなか見つからない。ところが、鮮魚シタボ(同級生のお店)のブログにこれが掲載されているのを発見。貴方だけに、このアドレスを紹介しておこう。新鮮なサンマであれば秋最高の味覚、一度お試しあれ。

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2011年9月24日土曜日

終わりなき支援活動

来月、在京の高校同級生仲間を招集し、情報交換を行うことにした。3.11以降、一度同様の集まりを持ち、出身中学校単位で町の被災状況を報告したところ、沿岸の地域はいずれも尋常な内容ではなかった。高校単位では、被災地域が気仙町から綾里や吉浜までと分散し過ぎ、組織的な支援活動は難しいことを認識した次第。以来、中学校単位に絞り、活動を行うことにしたのである。あれから数ヶ月。再度招集し、どのような活動を行なっているか報告し、意見交換するのもよかろう。

大船渡中の連中は文集の定期発行を企図し、初版は既に校正作業が終わりまもなく郵送するようだ。人数が末崎中の倍なので、送付作業は大変だ。それにしても、アクションは速い。当方は、やっと住所確認のハガキを郵送したばかりである。

集会の連絡は、男は拙者が担当することになる。早速、休日の朝に常連組に電話し、その旨を伝える。一名、常連組でない人物にも連絡してみることにした。彼、3.11直後に電話をくれたのである。田舎の惨状に衝撃を受け、何かしなければと湧き上がる感情を如何ともし難い様子であった。その後どうしているだろうかと気になり、携帯に連絡してみる。彼、意外にも気仙に居たのである。曰く、東京から毎週、故郷の陸前高田を訪れ、ボランティア作業に参加しているといのである。東京から毎週である!! 高速代はかからないにしてもガソリン代はバカにならない。車で片道6-7時間は要する。まさに脱帽である。

集会当日は、残念ながら空手を指導している子供達の遠征試合の日で、参加できないとのこと。残念ではあるが、皆に彼の活動を報告しておくことにしよう。

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2011年9月23日金曜日

金獣カネゴン

今回1995年の輪行を記録する際に、最新の地図にアクセスしてみた。そこで改めて気づいたのだが、この16年間で、輪行コースにダムが3箇所完成し人造湖になっていたことである。当時既に工事中のところが2箇所あったので、当然と言えば当然のことである。しかしよく考えてみると、ダム工事見学を意図してコース設定した訳ではない。そこを偶然通り過ぎただけである。ということは、日本全国の河川で同様の工事が同時進行していた可能性が高い。公共事業の名のもとに、国内の自然や山村集落が破壞されてきたのである。それを思うと驚愕せざるを得ない。

そういえば、サイクリングで利用した林道も通行止めのところが多い。路肩が崩れたり、がけが崩れたりと、見捨てられたところが意外と多いのである。作ることが目的で、有効利用は二の次。ダムも作っただけでは済まない。修理メンテナンスも人工物の宿命だ。その間、税金が垂れ流される。また、100年後、200年後に土砂で埋まったダムはどうするのだろうか。作ることだけに関心が向き、肝心の最後の一点は不明である。

特定の巨大利益集団ができると、とことん食い尽くすまで活動を辞めようとしない。ダムに適した河川があれば、巨額の税金を投下してでもダムを作ろうとする無節操さ。これはダム事業だけにとどまらない。原発等もまた然りである。コバンザメの如く、既得権益集団や天下り団体が餌に群がっている。
金獣カネゴンは貴方!?

お国の巨額債務もお構いなし。コバンザメ集団が巨大金獣カネゴンとなって税金を食い尽くしていく。そして、「福祉目的」と一見まともな理由付けで、消費税率を引き上げようとしている。貧しき者から、子供から、とあらゆるところから税金を巻き上げる魂胆だから溜まったものではない。「平和目的」で危険な原発を推進したのと同じ理屈だ。甘い言葉には気をつけよう。

消費税率アップを喜ぶのは、金獣カネゴンだけである。カネゴンは、金欠で餓死させる他はない。カネゴンをペット飼いする余裕は国民にはもう無い。
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2011年9月22日木曜日

輪行記録:1995年夏(3)

台風一過で厳しい残暑と思いきや、午後は曇り、そして夕方から雨模様。この夏は遠のいていく。

さて、拙者にとり夏は輪行の季節。今季は帰省以外どこにも出かけず、不発に終わる。そこで、前回に引き続き1995年の輪行記録を思い出し、この夏のジ・エンドとしたい。変速機無しの2号機による最後の輪行、それが16年前の9月のこと。信州と秩父を分ける三国峠越えに挑戦した。

輪行日: 1995.09.09 - 三国峠越え (信州から秩父側へ)


新宿駅前夜発
野辺山駅(8:45)→川上村→三国峠(11:30)→中津川 →大滝村 →三峰口(15:00) →秩父(18:00)

小海線野辺山駅はJRの駅で日本一標高が高い地点(標高1,345.67m)に位置する。ここから川上村までは下り坂である。村に入ると、途中からは729日の大弛峠越えの下りに利用した道を暫く登ることになる。三国峠までは、徐々に勾配がきつくはなるが、登り下りが無いぶん素直な行程といえる。
 三国峠

三国峠の名称は全国各地にあるが、今回は信州と秩父の国境にある峠である。ここまでは舗装されており、体力の衰えた拙者でも苦労なく登れた。秩父側は一転、未舗装だったと記憶している。道幅も狭く険しく、行程は長く、深山の林道という趣である。

中津川に沿って暫く下ると最初の民家が現れてきた。ダム工事による移転を拒み、居続けている集落のようだ。周囲の山は、貯水時の水位あたりまで芝木が刈り取られていた。それから判断するに、この集落は完全に水没する運命だ。かつては森林経営でそれなりに栄えていた集落だったのかも知れない。その後、山は見捨てられ、若者は村を離れていく。そして、残った人達も、ダムの完成と同時に先祖伝来の地を離れていかざるを得ないようだ。
 立退きを迫られる集落
現在はダム湖に水没

芝木が刈られた右岸の道を暫く下ると、ダム工事現場に到達する。ここからの急坂を下ると、見慣れた山村集落が点在する道になる。

ここからは、お気楽なサイクリング。学生時分に登山で利用した三峰口の駅前を通過。秩父盆地の平坦地に降りてからは、自動車の多い幹線道路を避け、静かな裏道を行くようにする。路傍には古い石仏が多く、秩父の歴史を感じさせてくれる。秩父駅は何度も利用したことはあるが、その周辺は歩いた事がない。急ぐ理由はないので、古い町並みを気ままにサイクリング。食堂で腹ごしらえしてから、西武線で帰京する。

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以上が、1995年の輪行の記録である。変速機無しの自転車での輪行もこれまで。その後3年間、輪行から離れる。1998年に6段変速機の自転車(3号機)を入手してから、輪行の意欲が戻ってきた。後日また、その輪行記録を順に紹介していくことにする。

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2011年9月21日水曜日

音楽は目から

台風15号が接近するなか、同じマンションの知人のお部屋に電子ピアノが搬入された。この御仁、好奇心旺盛の趣味人である。ピアノは初心者、これから始めようとしている。ここに至る迄を紹介しておくこう。
搬入された電子ピアノの試奏

“Shall weダンス?”でダンスブームが始まる数年前に、どういう訳か知らないが突然ダンスサークルに通い始めた。忙しい仕事の合間に、ダンスパーティにまめに通っていたようだ。ところが数年前から膝の痛みを訴えるようになったのである。加齢に伴い、動きの激しいダンスにはよくある障害らしい。そこで、ダンスからカラオケに趣味を変更し、カラオケの先生に指導を受けるようになった。その後は、膝の状態も良くなったらしい。

また昨年、生まれて初めてパソコンを所有することになった。それまでは、調べ物があると、拙者のPCで検索してあげたもので、その利便性がやっと理解されたようである。全くの初心者であり、購入の手続きやインターネットを含めた初期設定のお手伝いをしたものである。マウス操作も覚束ない初心者には、暫くWeb巡りに慣れてもらうために、趣味のカラオケとも関連するYouTubeの利用法を紹介した。

半年後には、覚えたいカラオケを検索してはキューに登録し、繰り返し聴けるように操作出来るようになった。更にはCDの音源をパソコンに取り込み、MediaPlayerで管理・再生するようにもなった。YouTubeのデータをCD化できないか、高度な質問がでるようになったのはその頃である。拙者、音声メディアの扱いに関しては不案内であり、ファイル変換には苦労したものである。

カラオケの歌詞は検索で簡単に探せる。が、楽譜はどうしても見つからない。歌を習うのに楽譜が無い。その事に、彼は納得できないらしい。メロディが自然に口ずさめるようになるまで、レコードを何度も繰り返し聴くものだと説明しても納得しない。そこで、大手本屋の音楽コーナーに楽譜付きの歌謡曲集があることを教えた。まもなくして1000曲近く収録された歌謡曲集を入手し、カラオケのレッスン用に楽譜をコピーし分析するようになったのである。その頃は、西洋音楽の基本法則に関する質問もあった。音階とか調性とか、初心者は誰でも疑問に思う内容である。ピアノの黒鍵と音階の関係も、簡単なイラストを書いて説明した。あるいはドレミの相対音階、ABCの絶対音階、C/C7th/Cmのコード等々である。それからまもなくして、子供用の玩具の鍵盤を購入し、楽譜を見ながらメロディを弾き始めたのである。

そして10日程前に、チラシで知った近所のピアノ教室に行ってきたようだ。そしてこの教室に通うことにしたらしい。先生に電子ピアノを紹介して頂き、本日それが搬入されたのである。

早速、楽譜を開いて習いたての練習曲を引き始めた。1回レッスンを受けたばかりであるが、結構様になっている。元々音楽とは全く無縁であった。それがダンスを契機に、カラオケ、パソコン、そして今電子ピアノと、音楽と関連した趣味の範囲が増殖中である。持つべきは良き友なり(特にパソコン)・・・。

彼、TVに時々登場するB級グルメのスーパー料理人。好奇心が向けば熱中し、しかも三日坊主では終わらない。60の手習いに感服である。

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2011年9月20日火曜日

病の元

DMの返信ハガキ、本日更に1枚回収し、計2枚になった。先週届いた最初のハガキは、住所から判断するに、同級会で方言丸出しの元気なK子さんである。電話番号が記載されていたので、一応本人確認の為に電話する。ご本人が受話器をとられたようだ。だが、声の感じがイメージしていたものと違っている。むしろ落ち着いた雰囲気で、田舎弁丸出しではない。とすると、別のK子さんかも知れない。ご本人曰く、中学時のクラブが拙者と同じだったらしいが、申し訳ないがお顔を思い出せない。9年間でクラスが一度も一緒になったことがない。卒業写真集が無いというのは、こういう時に困るものである。

本日届いたハガキは、住所が赤崎町の仮設住宅になっていた。対岸のこの町に嫁いでいる者は少ないので、何方かおおよそ検討がついた。電話番号は変更されていなかったので、S子さんであることが確認できた。

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在京メンバーの○子に中間報告を兼ねて電話してみる。K子さんについてもきいてみた。やはり元気ではない方のK子さんのようである。要件が済んだらすぐ切ろうと思っていたのだが、長々話し込んでしまった。体調が今ひとつらしい。精密検査を受けても原因が分からず、病院からは取り敢えず5種類程の薬をもらっているらしい。姉御肌の落ち着いた口調ではあるが、いつもより声のトーンが心持ち低い感じがする。話しているうちに、日常の悩みがすこしずつ吐露されてきた。体調不良は慢性的なストレスも原因しているのではと言ったところ、本人もそれを自覚していた。

家庭の雑事から離れ1-2週間完全フリーの状態になってみてはとアドバイスしてみる。家人に対しフリーになれる正当な理由をあれこれ考えてみた。被災地のボランティア、温泉湯治、JRパスを利用した気ままな一人旅、等々。そして思い至ったのだが、被災した同級生を慰問取材してくるのはどうだろうかと提案してみた。返信ハガキを回収した段階で、同級生の避難先がおおよそ把握できる。皆の近況や被災当時の状況を取材し、その内容を文集にして発送するのも一考である。その時は頼むからとお願いしたら、ご本人快諾してくれた。そして受話器を置いた。
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2011年9月19日月曜日

復興財源

テレビ討論会を見ると増税議論が活発だ。震災復興、増える福祉経費、そして年々積み上がる巨額債務と前途は多難だ。

増税というと、判で押したよう消費税率にすり替えられてしまう。誰でも均等に負担することで税率をいじりやすいのだろう。だが消費税の問題は逆進性にある。貧困者程、経営の厳しい零細企業程、負担が大きい。景気にも大きな影響が出る。言ってみれば悪平等の典型である。

増税の前に、既得権益の切り込みなり無駄な経費をカットするなどやるべきことがある。だが、悪者になることを怖がってか改革に躊躇している。結局、抗議できない次世代に赤字国債で負担を押し付けてしまう。先延ばしが積み重なり、お国の債務が800兆円というバカバカしいお話である。やはり、問題点は当事者世代で解決すべきであり、次世代にツケを回さないという姿勢が必要である。そこで、既得権益の打破と税収アップについて、拙者の思いつき案を以下に手短に列挙しておく。

既得権益の打破例:
●公務員のボーナス支給を震災復興まで停止:
震災で多くの国民が職場を失っている。復興支援に予算を回すべきである。
●高額年金受給者の課税を強化し、その分年金貧困者に回す:
今の公的年金額は現役時代の給料が反映されている。だが、現役時代給料が少ない人程年金への依存度が高い。年金は貧富の差固定システムになっている、実に矛盾に満ちた制度である。年金収入への課税強化で、年金格差を是正する必要がある。
●原子力予算を大幅削減:
●その他無駄な補助金をカット:

税収アップ例:
●相続額に対して、控除前に5%(消費税率相当)課税する:
後は通常の相続税とし、その控除額も減らす。相続税負担対象者が増え、税収も相当増える筈。
●大学、研究機関、宗教法人に地価税:
とくに大学は大都市に集中している。田舎の子弟には不公平はなはだしい。大学を大都市圏から追い出し、若者を全国に均等に分散させる。

以上だけでも、数兆円の余剰資金が得られ、震災復興や社会福祉に回せるではないか。消費税率アップという単純発想では能がない。

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2011年9月18日日曜日

被災地の人口流出

日テレで「立ち上がれ東北経済」と題し、岩手県気仙地区の地元企業経営者が紹介されていた。地元大手スーパーマイヤ(大船渡)や創業204年の老舗八木澤商店(陸前高田)の若手経営者も含まれていた。

町が流され、工場もやられている。産業が復興しなければ、人々は職を求めて町を離れていかざるを得ない。その為にも、会社を早く復活させたい。しかし流された町の復興計画は遅々として進んでいない。彼ら経営者にとってはジレンマである。あれから半年。個人の経済上の問題が、そろそろ出始める頃でもある。失業保険の給付期限が迫っている。瓦礫処理の日雇いもいつ切れるとも知れない。雇用-これ無しでは町は維持できない。

一時的に地元を離れてもらい、いずれ戻って来ることに期待しようという意見あり。親兄弟を無くした者が、一度出ていったら二度と戻ってはこないという意見あり。思惑は様々ではあるが、100%の雇用確保は現実的に不可能であろう。人口の流出は避けられない。

気仙の基幹産業ともいうべき、漁業、水産加工業、観光業の復活は急務である。更には、若い世代を呼び込むための新たな産業の創出が望まれる。脱原発のシンボルとして、自然エネルギー発電の巨大基地を気仙の地に呼び込めないものだろうか。あるいはIT産業の一角を誘致できないものか。今後クラウドコンピュータの時代になる。その時、データ保持の信頼性は絶対である。気仙は古い地層上にあり地盤が安定している。テロの心配もない。原発も無い。データーバンクのロケーションに適していると思うのだが・・・。

全国・世界中から老若男女のボランティア、自衛官、警察官、他県公務員等が被災地に入り、地元の人々と触れ合った。そして東日本沿岸の魅力を多くの方に認識していただいた。被災地は、現状のまま放置されるとは思はない。むしろ若い世代が、外から移り住む可能性だって有りうる。人口減少は一時的な現象と思いたい・・・。

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2011年9月17日土曜日

鈍感力

先日同級生に郵送したDM(100)が、住所不明で戻りつつある。その数11通。これからも増えていく筈だ。名簿を管理していた同級生の家も津波で被災してしまい、今回は10年程前の古い住所録を参照しているので致し方ない。

宛先不明で戻ってきた封筒に混じり、早速1枚の返信ハガキがあった。住所、電話は記載されているが、差出人が分からない。女性の筆跡らしい。その時はっと気づいたのだが、氏名欄がなかったのである。返信ハガキをレイアウトした拙者の凡ミスである。今更焦ってもしょうがない。住所と電話と筆跡から、差出人の検討がつく。だた、今回は被災し仮設住宅に移っている者も多いので、どこまで参照できるのかは、その時になってみなければ分からない。携帯Telの記載でもあれば本人確認がとれるのだが・・・。気をきかせて、空欄に氏名を記入してくれることを願うのみである。

人間思わぬ失敗に気づくと自己嫌悪に陥るものである。他人から見て些細なことでも、ヘンにクヨクヨすることがある。人間は感情の生き物だ。心が傷つくと、頭のどこかに化学反応が生じ、精神の平衡状態が乱される感覚がある。拙者の場合、たいした事でなければ一晩眠れば元通りになる。人によっては、それが何日も続くかも知れない。人に注意され、非は注意された側にありながら往々にして感情を害することがある。そして、時には暴力沙汰に及ぶことがあるから厄介だ。中には、「アッソー」とケロリ平然とした鈍感?人もいる。そんな人を見ると羨ましくなる。宇宙は広い。些細なことでウジウジ悩んではいられない。前進あるのみである。

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2011年9月16日金曜日

商売のヒント

またお店が撤退していく。地元の商店街を歩いていたら、昨年オープンしたばかりのパン屋が何と閉店工事中だった。外観はベージュ色、洒落たロゴマークの店名で飾られていた。店主の思いが込められたお店ではあったが、拙者一度も利用したことがなかった。

最寄りの駅からこのお店に至るまでに、同業者が3件、そしてコンビニもある。競合がひしめき合っている。また、ここから更に200m程進むと急坂に差し掛かり、人の流れが途絶えてしまう。坂下は別の私鉄線駅の商圏になり、急坂をわざわざ登ってくる客は少ない。出店前に、この悪条件をきちんと把握しておかないとヤバイとは思っていた。

小売のような利幅の小さな商売では、大量にさばかないことには家賃や人件費でさえ賄い切れない。大型チェーン店との競合もある。何か特別なセールスポイントが無ければ、無謀な挑戦に終わってしまう。小さなお店ではあるが、敷金、礼金、造作料、年間家賃と、少なくとも1千万円近くの初期投資が必要であろう。商売は非情である。ダメなら、ヘンなプライドを捨て、深みにハマる前に早々に撤退するのが賢明である。

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21年前のバブル崩壊以降、近所の小規模商店街でも次々と新しい店ができては撤退していった。バブル期まで日の出の勢いだった不動産店舗でさえも例外ではなかった。その後普及したネットの存在も、商売の仕組みを一変させている。そんなことで、都会ではお店の経営は難しい。高い家賃を払うために汗しているようなものだ。

最近の新規出店例として、ドラグストア撤退後にすき家が入り、コンビニ撤退後に日高屋が入った。やはりと言おうか、主食系低価格レストランが根強いものがある。拙者も時々利用する。ネットが普及し欲望が満たされても、空腹だけは満たせない。ネットの死角に、商売のヒントがありそうだ。


膨大な財政赤字で未来は危うい。年金依存の生活者は、特にヤバい。拙者も商売のこと、真面目に考えるとするか・・・。

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2011年9月15日木曜日

独日交流プロジェクト

昨日は、ドイツからボランティアチームの第一陣が到着するというので、これをサポートしている高校時代の同級生に誘われて成田まで行ってきた。

「遠くて不便」と思っていた成田飛行場。日暮里から京成ライナーで40分もかからずに到着。都心から遠く離れた不便な飛行場のイメージが、拙者の頭から払拭されたようである。巨大ターミナル駅ではない日暮里駅は、地域によってはアクセスに難はあるものの、乗り換えはスムーズで、ホーム上には冷房の効いた専用の待合室がある。便数は一時間に2-3本もあり、意外と便利である。

1便遅れた友人と飛行場で合流する。当該飛行機は既に到着しているものの、出てくるまで一時間程待った。最初に現れたのがベルリン在住の日本人団長F氏である。その後まもなく、入国審査を済ませドイツ人メンバーがやってきた。大学生が中心と思いきや、一人の青年を除き皆中年以上で、70歳以上のご高齢の方も混じっている。若い世代は、後日バラバラにやってくるらしい。統率好きの日本人団体とは異なり、どこかオオラカである。夜の飲み会で知ったのだが、この唯一の若者は、ベルルンを立つ時には現われず、成田で一緒になったらしい。モスクワで同じ飛行機に乗ったことを成田に来て初めて知った、とF氏笑って話しておられた。
ボランティア・チーム来日

一行は市川のホームステイ先に向かう。今宵は本八幡で歓迎会を催すというので、参加を約し一度別れる。

それまで時間はタップリある。飛行場を長年利用しているが、成田市内を見学したことは無い。そこで、有名な成田山新勝寺まで足を延ばすことにする。残暑が厳しい中を成田駅から旧門前町の参道を歩く。途中から道は狭まり、下り坂の両脇には旅館やお土産屋の歴史を感じさせる古い街並みが続く。汗をかきながら石段をひたすら登っては下り、最後は炎天下を避けて樹林の中を通り、広い起伏の多い境内を一周した。駅に帰る途中、坂の中腹にあった雰囲気ナイスな庭園付きの喫茶店に立ち寄り休憩。かき氷で喉を潤す。
昔懐かしかき氷

坂を登りきり暫く歩くと、トマトを路上販売している所にやってくる。山盛りで200円。激安である。お寺の帰りに買うつもりであった。あれから2時間は経過しているものの、未だ大量に売れ残っていた。200円出して一袋買ったところ、更に一袋特別サービスと行って差し出してくれた。荷物になるので一度は躊躇したが、ご厚意に甘えることにした。

歓迎会のあるビル6階の和風居酒屋には、ちょうど6pmに到着した。半数は地元の方々である。団長F氏の小学校時分の同級生らしい。拙者より10年近く上の世代とは思われない程、皆さん若々しい。ボランティア一行の本日のホームステイ先も、明日の遠野までの移動も、彼ら同級生のサポートに依っている。

会場に入った時に若い女性が居ると一瞬思ったのだが、よく見ると成田で見かけた長髪の青年だった。名前はティルマン君。乾杯後も、お酒を飲むよりは、拙者が教えたばかりの日本語イロハの書き方に熱中している。仕事を辞めてこのチームに参加しているらしい。飛行場で見た時は、世代の違いか一人浮いていたようだったが、横で話してみると実に真面目な好青年である。

会の終にドイツ人リーダーのスピーチがあった。このボランティア・プロジェクトは、例えば大船渡の子供達をベルリンに招待するなど、これを契機に継続していく意向のようである。とすれば、プロジェクトの未来は、今回の訪問成果如何である。遠野から大船渡には今週末移動する。ボランティア作業の合間に、友人が同道し、市役所を始め地元の中学校や高校を訪問するようだ。
歓迎会

震災後にこのボランティア・プロジェクトを立ち上げたのは、団長のF氏である。F氏と友人は、随分以前に、東京の路上でたまたま知り合った仲らしい。以来、彼女がドイツに居るF氏を訪問し、あるいはF氏を大船渡に案内したこともあったようだ。碁石海岸に案内した時、彼女の話では、同伴のドイツ人の奥様が「南仏の海岸のようだ、ワンダフル」と大変感激したらしい。

地理的に不利な気仙の地に、新たな国際交流関係が結ばれることは、刺激の少ない気仙の子供達にとっては大変有難いことである。F氏と友人の奇縁と大震災。ここから始まった友好プロジェクトを未来に発展させて頂きたいものである。
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2011年9月13日火曜日

「死の町」発言は不当か?

「死の町」発言で経産相大臣が辞任した。表向きは不用意発言ということらしいが、本当だろうか。原発推進派一味とそれを支援するマスコミの好餌になった気がしてならない。

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「死の町」発言が不当かどうかは、実際行って見た者でなければ判断の仕様がない。批判している連中は、実際現地を見ているのだろうか。そうとは思えない。客観的に判断するなら、「死の町」発言は至極妥当のように思える。今週の週刊朝日に掲載された福島第一原発の写真と記事を見る限り、状況はあれから何も変わっていない。豚や牛などの家畜は野垂れ死にしている。津波による瓦礫も放射能汚染で片付けられていない。とすると、これを「死の町でない」とする方がウソである。ウソも方便かもしれない。現状を直視する限り、期待しても裏切られるだけと思うと、避難住民にとり、ウソ発言の方がより迷惑千万である。

黙りを決めた原発推進当局の経産相。そこの大臣自ら「死の町」発言をしたことはむしろ画期的なことではないか。なぜなら、経産相が福島を「死の町」にした張本人だからである。大臣のこの発言は、非を率直に認めたということになる。

至極妥当な発言をした大臣が辞任に追い込まれた。恐らくは、原発推進派の経産相官僚やそれを支援するマスコミの陰謀にやられたと思って間違いない。

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「直言10月号」に、当局の陰謀?とも思える策略で辞任に追い込まれた、元福島県知事S氏のインタビュー記事が掲載されている。そこで、原子力行政を強引に推し進めてきた経産相の無責任体質ぶりを指摘しているのだ。

詳細はこの月刊誌に譲るとして、東電の影に隠れ、経産相の責任者は福島の被災地を訪れることもなければ、県民への謝罪も述べていないらしい。原発の再稼働を目論んでいる最中に、突如「脱原発・自然エネルギーへの転換」を宣言した元首相の辞める・辞めない問題も、彼らが暗躍しているらしいのである。経産相大臣の「死の町」発言は、むしろマトモと言える。だから、彼も原発推進派にとり邪魔な存在であり、消されてしまった。と、そんな裏ストーリーが見えてくる。
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2011年9月12日月曜日

田圃は国のお宝

田舎の親戚で作ったコメ30kgが送られてきた。これだけであれば、万が一食料不足に襲われたとしても、半年近くは食いつなげる。収獲するだけでも大変な手間暇がかかると思うと有りがたい。

3.11の震災直後、スーパーの棚から真っ先に無くなったのはコメだった。人間何か食わねばならぬ。しかし、ガラ空きの食料品コーナーを見た時、異様な危機感を覚えたものである。仕方なく、店頭の片隅に残っていたコーンフレークスをまさかの非常用に手に入れた。買い置きのコメを食い尽くす頃までには、買い占めも一巡したらしく、また店頭に現れ始めたので、コーンフレークスで凌ぐ生活は回避できた。やはり、コメは日本人にとり最も大切な基礎食料である。この当たり前のことが、震災で再認識させられた。

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20年前のバブル華やかし頃だったか、コメの貿易自由化問題で賛否激論がなされたものである。もっと安いコメを食いたい、だから自由化すべきと、ご高名な経済学者や産業界の片棒担ぎの連中が盛んにはやし立てたものである。高いなら、拙者的には都内の家賃や大学の授業料を安くしてくれ、と叫びたいところであった。コメだけがやたら高い高いと強調される。まるで、弱い者いじめ、田舎いじめの感がしないでもなかった。食料生産を蔑ろにし、外貨稼ぎの為と称し、大量の産業廃棄物や放射能を生み出しながら、せっせと輸出向けのモノ作り。どこかおかしな話だ。

田舎にいた頃は、家の畑仕事を手伝ったものである。畑は急斜面に開墾されたもので、子供心にも正直農業は大変だと思ったことを今でも忘れない。だが、人間食わねば生きては行けぬ生き物だ。誰かがキツイ食料生産に励んで頂けなければならない。高い・安いの問題ではない。基礎的農産物の自給は、国の義務であると思う。高地や寒冷地など農業に適さぬ条件ならいざ知らず、自国の農地を放ったらかしたまま、食料を安易に輸入に頼ることには大いに疑問である。

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平地の少ない半農半漁の末崎にも、かつては水田が結構あったものだが、今は殆ど消滅した。元々農業は女の仕事、一攫千金を狙える漁業が男の仕事。と、そのように分業されていたが、その後海沿いに水産加工場ができ、女性がそこで働くようになった。お金にならない農業よりは、安定した現金収入が期待できる方を選んだことで、農地は放棄され、農業は衰退した。結局、水田は消滅してしまう運命だった。

同じ岩手でも、コメを送ってくれた親戚は、北上川水系の豊かな穀倉地帯にある。だが、新幹線も高速道路も通る本線沿いには、多くの工業団地が生まれている。農業環境が旧態依然のままであれば、若い世代は農業を捨て、安定した工場労働者になる筈だ。そして、広大な水田であっても夏草が伸び放題の荒地と化し、末崎と同様の運命を辿るとも限らない。

人口爆発で、いずれ深刻な食糧危機に見舞われる。その時、耕作可能な農地を放棄したまま、カネの力で海外から食料を買い漁る態度は、世界中から非難される筈である。そのためにも、若い世代が夢を持って農業に取り組めるような環境作りが急務である。

原発で、農地が汚染されてはたまらない。原子力関連予算は直ちに半減させ、津波をかぶった農地や耕作放棄地の再生事業に回して頂きたいものである。
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2011年9月11日日曜日

ノーモア・ アゲイン

3.11から半年、そして9.11WTCの悲劇からは10年。拙者の人生の中でも最もショッキングな事がこの10年間で起きている。

前者では、自然と原発の脅威が改めて認識された。これまで信じ長年積み上げてきた経済優先の社会システムが、実は脆弱であることに皆気づいてしまった。後者はテロ攻撃であり、一般市民を平気で巻き添えにする凶悪な人間性に、唖然としたものである。

極端な思想・信条を持つ極少数の人々は、どの国でも何時の時代でも存在する。これも社会の自然の仕組みと考え、ある程度許容していくことは、戦前の思想弾圧のことを省みれば納得できよう。だが、暗殺や一般市民を巻き添えにしたテロ攻撃など、デモクラシーを完全否定する暴力テロに発展するのでは、たまったものではない。

インターネットの普及が、テロリストの活動を後押ししているようだ。9.11が、それを象徴している。これ以降、彼らは国際テロリストと呼ばれるようになった。以前ならば、彼らは自国の地下活動に終始していた筈だ。ネットの普及で、地球規模での活動が容易になった。ローカルでは少数でも、世界中から同調者が集まれば、強大な勢力になる。彼らは能力もあり、金融取引や密輸により巨額の利益を得るノウハウがある。経済小国ならば、乗っ取りも可能である。そして、政治を独裁し、原発を導入し、地下で再処理を行い、核爆弾を製造する。そして、これを他国に密輸する、あるいはテロ攻撃に使用する。実にあり得る話しである。

9.11以降、テロとの戦いが始まった。それまで戦争とは国家間の争いだった。かつては冷戦時代と言われ、アメリカとソ連の二強国家が核兵器の開発にしのぎを削り対峙していた。それが、今日ではお互い見えぬテロリストの脅威に怯えている。

一難去ってまた一難。時代が変わっても新たな脅威が発生する。それが人間社会であり、逃れられない運命にあるようだ。我が国も然り。ノーモア・ヒロシマが、ノーモア・フクシマだから皮肉なものだ。歴史は繰り返すとは言うが、人の予測を裏切る形で繰り返すものだから厄介だ。
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2011年9月10日土曜日

レトロなDM作業

明日で震災からちょうど6カ月。週末明けにDMする「末中OB復活アルバム制作」の案内資料の郵送準備に入る。

住所確認用の私製返信ハガキは既に完成、50円切手も貼付け済み。案内文は印字したので、コンビニで必要枚数をコピーする。送付先住所ラベルも出力した。封筒の差出人ラベルもOK。そして封筒に入れて糊付けし、更に80円切手を貼りつけて投函。と、メールご時世の今日では、レトロな一連のDM作業である。
DM作業中

拙者世代では、メールは未だ一般的ではない。仮設住宅に移った同級生も少なくないので、ネット接続が不可のところが更に多いはず。そもそも、名簿データのメールアドレス欄がほぼブランクに近い。同封の返信ハガキにアドレスの記載があれば、その後の連絡がスムーズになるので嬉しいのだが、結果はどうであろうか。

返信ハガキに、<あの日あの時>欄を設け、被災した場所やその後の行動を記載して頂く予定だった。が、人によっては瘉えぬ心の傷があるかも知れぬ。やはり不躾な質問かと思い直し、単に<自由通信欄>に変更することにした。この内容も、写真集DVDに収める事にしている。
甲子園再現対決:日ハムvs楽天

全部で110通程DMするが、その内何名から回答が得られるだろうか。無事な近況が聞けることを期待し、郵送の準備に入るところである。午後から、日ハム・斎藤君と楽天・田中君の投げ合いによる、甲子園再現試合が放送されている。単純作業の気を紛らわすのに丁度良い。
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2011年9月9日金曜日

陸前高田:被災の数値比較

あれから半年、漠然と大きな被害と誰でもが思ってはいるのだが、具体的な数値になると曖昧である。今回の平成大津波と明治三陸津波における、津波犠牲者数が次のサイトで報告されているので、再認識する上でも一部抽出しておきたい。気仙地方の大船渡/陸前高田に隣接する沿岸地域を含め、北から南の順で掲載する。



津波被害者数
                                 平成大津波            明治大津波
                               (犠牲者数/人口)          (1896)
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大槌町       1,450/15,239       900
釜石市       1,180/39,119      8,181
大船渡市        449/40,643       3,143
陸前高田市       2,098/23,164        845
気仙沼市                      1,411/73,154                    1,467
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明治の大津波では、陸前高田市の広田半島の先端、根岬地区では波高32mを記録している。一方、陸前高田付近の湾奥では相当減衰している。例えば、気仙町で3.45m、湾最奥の小友町三日市地区で1.7m。ところが、同じ小友町でも大船渡湾側の只出地区では9.2mと高い

今回は、根岬地区では、8月に掲載の映像でもお分かりのように、せいぜい10m前後である。ところが、湾奥の市内には更に巨大な波が押し寄せている。そして、広田湾側からと大船渡湾側からの波が三日市と只出の中間地点で激突し、巨大な波柱が立ったという。そして、この周辺にあったJR小友駅や駅前集落もすっかり流されている。
二方向からの津波激突地点
(陸前高田市小友町付近)
震災直後、広田半島は孤立した。
JR小友駅舎跡 (三日市/陸前高田方向)
駅を過ぎたあたりが津波の激突地点と思われる。

明治の頃は、堤防などなかった筈で、全く無防備状態といってよい。あるのは、地元民の津波伝承と感に頼る自主警戒しか無かった。チリ地震津波後だと思うが、高田松原の砂浜には、波打ち際の「低い防潮堤」と、その後方100-200mの松林の切れた地点の「高い防潮堤」が建設されている。言わば二重の構えである。万全?と思えた防災対策が施されていたにも拘わらず、陸前高田市に限っては、明治の犠牲者数を遥かに上回っている。
消えた高田松原海岸
震災前の地図と現在の航空写真の比較

末崎は大船渡市内にあるが、陸前高田市に隣接した町である。同じ気仙の地のこの市には親戚縁者が多く、心情的にも関係が深いものがある。拙者の中学の同級生は、陸前高田の高校に進学する者の方が、むしろ多かったくらいだ。大船渡の被害も甚大ではあるが、市庁舎、県立病院、高校などは無傷で、何とか町のインフラを留めている。一方、陸前高田ではそれらさえ全て失っている。しかも、町を象徴する高田松原海岸までもが、今でも信じられないのだが、7万本の松林とともに消失している。大船渡市民であっても、陸前高田の一層悲惨な状況であることを誰もが認識し、深い同情を寄せている。この事実は、上記の比較データからも伺い知ることができよう。

拙者、末崎に帰省する時は、JR大船渡線を利用していた。車窓に陸前高田の町が現れると、故郷に帰ってきたことを実感したものである。そんな訳で、どうしてもこの町に関心が向いてしまう。

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2011年9月8日木曜日

残されたアルバム

あの日からほぼ半年。我が末崎町の津波被害を調べてみた。56日時点で以下の数値になっていた。
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死亡者・行方不明者=61名 (大船渡市全体では459)
被災戸数=734(43.5%)
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町内であれば短時間で高台に避難できる。尋常な揺れではない、そして昼間のことでもあり、犠牲者は少ないだろうと思っていた。にもかかわらずこの数値、正直意外である。

津波警告が出されていたのにもかかわらず家に留まり逃げ遅れたとか、第一波襲来後に貴重品を取りに戻って流されたとか、そんなケースを何件か聞いている。あるいは、寝たきりで避難できなかった方もいたのではと思うとやりきれなくなる。仕事先が町外で、そこで被災した方も少なくないようだ。
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特にお隣、陸前高田の市街地で遭遇した場合、致命的とも言えた。津波警報が出て直ちに高台に非難と言っても、平坦地の広いこの町では、高台は遥か彼方である。車が無ければ、当然、近くの高いビルに非難することになる。しかし、波はビルの4階まで達している。それ以上階数のあるビルは数えるほどしかない。だいたい、あのような巨大な波が来るとは誰も想像していない。助かるかどうかは、残念ながら運でしかなかったようだ。大きな揺れが発生した時点で津波を予測し、兎に角高台を目指して急がなければならなかったのである。
 陸前高田市民体育館


お盆の帰省中に、被災したこの市街地跡を初めて見て回った。その際に市民体育館に立ち寄る。ここは市の指定避難所の一つになっており、3.11当日には約80名の方々が集まってきたらしい。海岸から800m程離れているこの堅牢そうな施設も、巨大な波に襲われた。内部の二階は観客席になっており、避難された方はこの席に座り、待機していたと思われる。津波は、無常にもこれより遥かに高い所に達し、殆の方が亡くなっている。奇跡的にも、僅か3名の方が、館内の梁にしがみつき生還しているようだ。
市民体育館内部
時計が15:30で停止
波は天井近くまで達している。

建物の入り口には、犠牲者を弔う祭壇が設けられていた。左隣の方には、回収された多くの写真アルバムが所有者も分からぬまま、埃をかぶり無造作に箱に入れてあった。最初に手にした写真は、昭和5年と記された女学校の卒業記念写真である。明治生まれのおばあちゃんを偲ぶ遺品だったのかも知れない。次に手にしたものは、あどけない女児のスナップ写真集である。地元で開催されたロードレースの写真もあった。それぞれ人生の一頁が収められている。見ていたら切りがない程、あまりにも多い。あれから5ヶ月、未だ誰も持ち帰る関係者も現われずに残されたアルバム(「遺された」とは言いたくない)。皆無事であってほしいと願うばかりである。
市民体育館に回収されたアルバム

持ち主が現れず、残されたアルバムはどうなるのだろうか。できれば、全てデジタルスキャンで取り込み、ネットで閲覧できるようにしたらどうであろうか。陸前高田を偲ぶ貴重なアーカイブ写真集になると思う。ボランティアの方々の活躍に期待したい。

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2011年9月7日水曜日

変わる概念:「昔」

末崎町の被災データをネットで検索していると、意外な情報サイトに行き着いた。なぜだか海のない県にある群馬大学のサイトのようであるが、大船渡市内(平成合併前)に存在する津波記念碑のデータベースである。


末崎町内だけでも28箇所ある。其のうち3箇所は泊里の麟祥寺境内にあるのは、何となく気づいていたのだが、それ以外は全く知らない。拙者の部落には2箇所あり、その一つは下の写真で堂々としたものであるが、これさえも情け無いお話だが、どこにあるのか知らないのである。

末崎町小細浦の津波記念碑?
碑文:「ふき出し そのあらなみのはげしさを おもひ出ても かしこむや けふ(福羽美静作)、
末崎村670余人溺死,細浦330余人溺死、天皇初め義捐あり、」
(明治35年6月15日建立)

この建立は、拙者の曽祖父母世代以上の出来事になってしまう。が、祖母の母親以外は、名前も知らなければ写真を見たこともない。個人のファミリーヒストリーでさえあやふやな時代に建立されているのである。そのくらい古い昔の事であり、きちんと伝承されない限り、記念碑の存在意義を正しく理解することは難しいようだ。古い津波の碑と個人個人勝手に思っているだけで、無いよりはマシではあるが、これから危機意識を持つことは難しい。

拙者、小中学校の9年間で、町内にある津波記念碑の存在について一度も教えられたことはない。また、過去の津波がどの範囲に及んでいたのかさえ、地元で教えてもらったこともない。小2の時のチリ地震津波の記憶があるので、個人的には多少警戒心は備わってはいたと思う。が、この津波の記憶が無い若い世代は、警戒心がかなり薄れていたようで、海近くの水田を埋め立てて家を建てている。

津波記念碑はあっても埃をかぶり、誰も注目しない。文語調の文字は掠れ、判読が困難なものさえある。本に掲載された当時の津波被害の写真も、白黒の古色蒼然としたものである。ただ何となく随分昔のことだと、皆は思いがちである。関東大震災の、動きがぎこちないノイズのチラつく白黒の記録映像を見てさえ、同じ印象で捉えてしまう。随分昔の事だから参考にはならないと・・・。

今回は、多くの映像がデジタルデータとして記録された。データは劣化することが無いので、100年後でも昨日の出来事のように鮮明に再生される。とすれば、かつてのように「昔の事」として一笑されることはなく、起こり得る現実的な問題として捉えられるのではないだろうか。

文字を発明し、人類の歴史が記録されるようになった。そして今、リアルタイムでデジタル記録される時代になった。これからは、「昔」という概念が随分違ったものになりそうだ。
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2011年9月6日火曜日

流木の危険性

台風12号による記録的豪雨で、土砂崩れや洪水の模様が放送されている。紀伊半島の土砂崩れと洪水による被害は特に凄まじい。

映像を見て気づいたのだが、流木が非常に多い。河原のあちこちに転がっているだけでなく、橋に引っかかり川をせき止めたようである。これで水位が更に上昇し、堤防を越えて家屋を破壊していったのではないか。山が荒れていると昨今指摘されているが、被害をもたらした流木がそれを暗示しているように思われてならない。

流木による被害で思い出すのは、3.11の津波による被災である。拙者3月に訪問した時に、盛・大船渡町方面の被災エリアで、流木が突き刺ささった建物を何件も目にしていたのである。後でYouTubeの映像を見ると、港の岩壁付近に確かに貯木場があった。あの山と積まれた大木群が速い潮に流されて、まるで柵から解き離れた猪突猛進の闘牛の群れのごとく、上流域の家々に突っ込んでいったことが想像される。一本数百キロの重さはあろう丸太は、水位1mもあれば完全に浮いてしまう。これが、時速20-30kmの人間の駆けるスピードでぶつかっただけでも、相当な衝撃である。貯木場に何本あったかは知らないが、仮に1000本あったとすれば、それだけでも破壊力は凄まじい。海から離れた盛地区も被災しているが、流木の被害が無ければ、床上浸水だけで済んだ家屋が結構あったのではないだろうか。
建物に突き刺さる丸太群 (大船渡町)

高台にも転がる丸太 (地ノ森バス停)
盛町方面を見下ろす。

今回の記録的豪雨では、土砂崩れが多発している。地盤の脆そうな山の急斜面は、映像で見る限り、杉の人工林で覆われているようだ。これらの人工の森が荒れるに任せておいて、防災上問題はないのだろうか。洪水被害を拡大した元凶は、無数の流木ではないのか。そしてこれらは、山に放置された間伐材や風倒木ではないのか。

やはり、倒木を山に放置せずに、木質バイオマス発電の燃料などで常々有効利用しておけば、洪水被害は少なかったのではないのか。と、防災と自然エネルギー有効利用の観点から思った次第である。

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PS:
関東大震災の未曽有の被害は、地震そのものよりも、その後に発生した大火災にあったことは良く知られている。だが、大火の元凶は、「関東大震災」の作者、吉村昭が指摘しているのだが、家財道具を運んでいた大八車にあったことは、あまり知られていない。

家財道具を運ぶ無数の大八車で道が塞がれ、消火活動が思うに任せなかったらしい。更には、避難所に積まれた家財道具に火が燃え移り、集まった多くの市民も大火の犠牲になっている。

天災による被害の拡大は、人間の事前の防災対策如何にある。堤防とか砂防ダムなどハード面だけに頼るのではなく、山林管理や人々の防災意識などのソフト面の重要性も、3.11で再認識されたのではないだろうか。
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