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2011年7月31日日曜日

神仏まかせ・・・

浄水場の汚泥や、稲わらを餌にした牛の肉から高レベルの放射能が検出され、大騒ぎである。今回は、汚泥や稲わらと限定しているようだが、冗談ではない。原発を中心に広範囲で、地上にあるもの全てが放射能汚染されていることは明らかである。だが、被曝しても、見えず臭わず、痛くも痒くもなく、直ちに影響がでるわけでもなし、害の有無を判断するに実に厄介なシロモノである。被曝量をシーベルトという訳のわからぬ単位で評価し安心しているようだが、アテにしてよいものなのか。アルファ、ベータ、ガンマーの線種があり、これらを同一単位で被曝量を評価できるものなのか、素人の拙者には不思議に思えてならぬ。だいたい検出器にせよ、放射距離の極めて短いアルファ線にも反応するものなのであろうか。疑問、疑問、疑問、・・・とは思っても、苦痛にあえぐ訳ではなし、終いにはどうでもよくなってしまう。これで、政策当局の思うつぼであるが、致し方ない。今のところ、汚染されていないであろう水や食料が豊富にあるからよいもの、3.11直後の物不足であれば、飢えるよりは汚染されたものでも有りがたく頂戴したところである。

放射能の害の有無についてであるが、なるべく被曝しないことに越したことはないが、実に曖昧である。唯一の原爆による被爆国として、広島・長崎在住の方々の長期の疫学調査を行って来ていると思うのだが、ネットを検索してもそれらしき調査データが見つからないのである。いい加減サボっているのがバレないように、公表しないのであろうか。それとも勝手に解釈され、要らぬ混乱を避けるための配慮なのであろうか。判断に苦しむところである。その筋の専門の研究機関なり大学があるのであるから、マスコミに登場し堂々と調査データを公表したらいいのにと思う。ところが肝心の専門家ではなく、明らかに御用学者らしき御仁ばかりが登場するので、視聴する方でも、「お前引っ込めヨ」と叫びたくなることしばしばである。

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7月末は、本来ならば梅雨明け後から安定した天気が続き、輪行や夏山登山には最高の時期であるのだが、今年は期待を裏切っている。新潟・福島では記録的な豪雨で、河川の堤防がいたる所で決壊しているようだ。東京もどんより曇り空、朝肌寒い。当地の方々には大変気の毒ではあるが、この大雨が地表に降った放射能を洗い流し、大地を浄化してもらいたいものである。

一度放射化されたものは中和される訳ではなし、結局のところ地球上でホウボウに拡散し、長期間放射線を吐き続ける。覆水盆に返らず、起きてしまったのは致し方ない。親不孝息子の人間様が犯した過ちは、毎度のことだが母なる海にお願いする他はないようだ。土砂に混じり海に流れた放射能は、最終的には海底に沈殿していくのであろうか。厄介者を、海深くに封じ込めてくれることを願うばかりである。

現代科学は万能かと思いきや、実に頼りないものである。結局のところ、風まかせ、雨まかせ、海まかせ、時間まかせ、そして神様まかせということのようである。今も昔も変わらない・・・。

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2011年7月30日土曜日

発送電分離は山村を救う

最新ニュース:「政府では、電力会社の発電事業と送電事業を分離することも含めて、電力事業の在り方を検討していくことを正式に決めました」について・・・。
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電力会社としては、市場独占の利権を手放したくないから、相当ゴネることが予想される。
しかし、3.11で安全神話が完全崩壊した今、電力事業においても自ずと進む方向がハッキリしたと言える。かつてのNTT独占の電話事業を考えてみれば明らかである。もしあのまま、今日のインターネットや携帯の時代を迎えていたらどうなっていたか。おそらく、今より遥かに低速でしかも高い料金を払わされていた可能性が高い。今日のスピード感で成熟し普及することはなかった筈である。

電力システムも、危険な原発依存を脱却し、エネルギーの多様化、分散化に向かうべき時である。誰でもがサーバーにアクセスしデータの送受信ができるように、電気もこれまでの受電一方だけでなく、余剰電力を誰でもが売電できる双方向性の環境にすべきである。これが実現されれば、全国津々浦々に新しい産業が創出されることが期待できる。今まで産業立地の難しかった山間地域でも、豊富な森林資源を利用したバイオマス発電(*1)やシステムのより単純な温度差発電(*2)により売電事業が可能になるからである。安定した収入が見込めれば、若い世代も定住し、人口減少や限界集落の問題も多少は解消される。間伐材を利用することで、荒廃していた森林の再生にもつながる。

ところで、長い間見捨てられてきた森林が、将来の投資対象として金余りの外国人投資家等に密かに買われていることをご存知だろうか。森林所有者も経費だけかかるのでは持っていてもしょうがない、良い値で買ってくれるなら外国人でも構わないと思うのは当然である。しかしこの状態を放置していたら、いずれ大半の山林が外国人投機家に占有されてしまう可能性がある。それで良いのだろうか。

水・空気・土壌の自然環境を守りながら、森林からも適切な利潤が得られ、林業従事者が増えていくような仕組みを早急に作る必要がある(*3)。そのためにも、発送電分離案の実現により、山間地域での売電事業の育成も有効であると思うのである。

「発送電分離は山村を救う」そして「日本も救う」である。
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参考リンク:

山上の集落群 (輪行日:2004.9.18)
中央が長野の虫倉山(1378m)。
山の中腹の水平道に沿って集落群が広域で点在している。
古刹あり棚田あり、しかし小学校は廃校になっていた。
美しい山村風景が永遠であることを願いたい。

旧御山里小学校跡
ピアノ伴奏による女性の独唱が聴こえてきた。
夏は音楽の合宿所になっているのだろうか。
子供達の歓声が消えて久しい・・・

2011年7月29日金曜日

テレビの記憶

小学生時分にテレビが一気に普及したことで、子供達の生態が大きく変わった。皆、外に出て遊ばなくなり、テレビの前で日に何時間も過ごすのが当たり前になったからである。我々が、「テレビっ子第一世代」といって間違いなかろう。

テレビの他には、洗濯機や冷蔵庫が次々に導入され、生活が一変した。

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小学校に入学した当時、テレビは全く見かけなかった。それがまもなくして、裕福な家を中心に入り始めてきた。物珍しさから、どの地区でも近所の老若男女が大挙し、テレビのある家に詰めかけたようである。拙者は近所の子供らと一緒に、近所の台湾先生のご自宅に押しかけ、大相撲をよく観戦させてもらった。初代横綱若乃花が大活躍していた時分で、他には横綱朝潮とか大関北葉山を思い出す。当時は、大相撲の人気が圧倒的で、応援に熱がはいったものである。その後、大鵬・柏戸の若手関取が台頭し、白鵬時代を迎えて最高潮に達した。拙者は、白鵬相手に果敢に挑戦する佐田の山関を応援したものである。


その頃には、小学校の職員室で見るようになっていた。たぶん週末だったのであろうか、教職員は顔馴染みの用務員のオジサン以外誰も居らず、気軽に近所の人たちが集まり、大相撲の大勝負に一喜一憂したものである。兎に角、テレビ黎明期には、拙者の知る限り、大相撲番組を抜きには考えられない。

ある日、小学校から帰ると細浦の原田電器店のオヤジさんが居間に座っていた。我が家でも、いよいよテレビを購入することになったのである。値段は良く知らないが4-5万円位か、当時の大卒初任給が2万円前後であるから、未だ高額だった。この時拙者、NHK朝の連続ドラマ小説第一作「娘と私」を見ているので、おそらく小3であろう。東京オリンピックが開催された小6の頃までには、驚くことに、殆の家庭にテレビが入っていた。


それ以前の家電製品と言えば、裸電球、ラジオ、アイロン位しかなかった。テレビの後は、冷蔵庫と洗濯機が次々と一般家庭に普及していったのは、末崎においても例外ではなかった。これによって、タライの手洗い労働から女性を解放し、生魚や生鮮食品の長期保存が可能になり食生活が大幅に改善することになる。これが戦後の高度成長期のことであった。

我が家にテレビが入ってからは、当然お気に入りの番組を毎週欠かさず見るようになった。子供の柔らかい頭には、一週間の番組表がすっかり記憶されていた。しかし番組の優先権は親が持っている。特に7pmNHKニュースだけは絶対で、拙者これには弱った。というのは、同じ時間帯の民放に、見たい番組が多かったからである。時々7pmになったことを気づかれず、シメシメと思いながら民放裏番組をシラバクレて見ていたものである。

参考までに、これらの懐かしい番組を思い出し、必ずしも放送された時代順ではないが、以下に列挙しておく。当時は、アメリカの西部劇やドラマが結構人気があったので、先ずは其れ等から紹介する。


小学生時分のお気に入りTV番組(昭和36-39年頃)

アメリカの番組:
ローン・レンジャー、ララミー牧場、ライフルマン、サーカス西部を行く、モーガン警部、ちびっ子大将、名犬ラッシー、コンバット

日米アニメ番組:
ポパイ、トムとジェリー、鉄腕アトム、鉄人28

民放番組:
快決ハリマオー、少年ジェット、琴姫七変化、隠密剣士、少年ケニア、白い恐怖のミイラ、てなもんや三度笠、スチャラカ社員、三匹の侍、姿三四郎

NHK番組:
チロリン村とクルミの木、ブーフーウー、ポンポン大将、お笑い三人組、おはなはん、バス通り裏、赤穂浪士、時間よ止まれ、ジェスチャー、それは私です、私の秘密、魔法のジュウタン、みんなの歌、のど自慢、紅白歌合戦

スポーツ番組 (拙者のお気に入り順)
大相撲、プロボクシング、野球、プロレス
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以上、4年間で良く見た記憶に残っている番組であるが、それ以外に忘れているものがあるかもしれない。

小学生ではあるが、当時のテレビ・ニュースも良く覚えている。海外では、米ソ人工衛星開発競争、ベトナム戦争、キューバ危機、そして最も衝撃的だったのはケネディ大統領暗殺事件であり、国内では何と言っても「吉展ちゃん誘拐殺人事件」である。誘拐犯からの電話録音テープがテレビで何度も流された。他には新潟地震、鶴見駅脱線事故。悲惨な炭鉱落盤事故ニュースも時々あった。

6時の東京オリンピックは連日ライブで放送された。開会式、三宅選手の重量挙げ金メダル第一号、水泳、100mのヘイズ選手、マラソンのアベベ選手、そして閉会式の模様が忘れられない。アベベ選手の走るマラソンだけは、小学校の講堂に集まって授業の一環として見たようである。拙者、途中興奮した訳ではないが、鼻血が出てきて一時退席した。


以上が末崎テレビっ子第一世代の、言わばテレビ番組記憶のレパートリーである。若い世代の方には、「みんなの歌」、「のど自慢」、「紅白歌合戦」以外は知らないであろう。それも当然である。当時の番組は、記録用フイルムが高価だってせいか、アーカイブとしてあまり保存されていないようである。何年か前に「コンバット」を何週かにわたりBSでまとめて放送されていた。さすがはアメリカと感心したものである。

テレビ、洗濯機、冷蔵庫の無い暮らしは、今では想像できない。我々は、その想像できない暮らしを体験している、最後の稀有な世代でもあるようだ。だから、国内総発電量の30%を占める原発が全廃されたとしても驚くことはない。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、それとパソコンを動かせるだけの電力は十分あるだろうから。

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2011年7月28日木曜日

貴方の新聞、脱原発派それとも推進派

近所でレストランを経営している餃子の巨匠から、夏は野菜たっぷりのタンメンに限ると教えられ、昼はフウフウ汗いっぱいかきながら、食べるようにしている。冷蔵庫の有り合わせの野菜と肉をぶち込むだけで、短時間で調理できのが宜しい。味も悪くない。食う時だけは、エアコンを効かす。食後はエアコンを切るのだが、暑苦しいなかで眠気をもよおす。そんな訳で午後は、ピーク電力時の節電協力も兼ね、近くの図書館に避難する。

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エアコンの効いた図書館には、各種新聞、週刊誌、月刊誌が置いてあり、読み放題であるのが嬉しい。幾つか読んだ中で、「世界8月号」の「メディア批評」欄が目を引いた。それは、原発問題に対し主要メディアの論調が微妙に違うらしいのである。大雑把ではあるようだが、次のように色分けされていた。

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脱原発派 :朝日、毎日、東京
原発推進派:読売、日経、産経
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これをみて納得したのである。というのは、先日の管首相の脱原発発言に対し、その発言は、脱原発への具体的な方策や道筋を示さず、あまりに無責任だ・・・の強い批判記事を読売新聞サイトで読んでいたからである。福島で多くの原発避難民の方々が苦しんでいる現状、一般庶民の感情を無視するかのような強い論調に、拙者正直驚いていたのである。読売といえば、「日本の原子力の父」と言われる正力松太郎元社主が有名であり、成るほどとヘンに納得していたのであるが、メデイアによって対応が結構違っているということを認識しておくのも、要らぬ混乱を避ける上で必要かもしれない。

原発問題に関しては、当の原子力工学の専門家でさえも意見は、脱原発派・推進派と両極端である。それも当然、彼らは原子力には詳しくとも、生物学や環境科学等の専門ではないのである。分からないことは希望的観測、例えば「絶対安全」とか「健康に直ちに影響するレベルではありません」としか言わないのである。素人の我々、何を基準として判断すべきか一層迷うのは当然である。

ただ記事中の言葉でダマされていけないのは、戦時中の軍事作戦でもそうだったようだが、有り得ないような希望的観測が実現可能な目標にすり替わることである。例えば、「より安全な原発・・・」とか「平和利用目的・・・」がその類である。これらは、現実を無視した甘い枕詞にしか過ぎないと拙者は見ているのであるが、どう思われるだろうか。

放射能を一杯溜め込む原子炉がどうして安全なのか。むしろ溜め込めば溜め込むほど危険が増してくるのに・・・。そして、原爆よりも遥かに大量の放射能を生み出す原発がどうして平和利用で有りうるのか。原発が大陸弾道ミサイルの標的にされたら国防上問題ないのか。核のゴミを押し付けられる後世の人々の立場になり、冷静に考えて見る必要もある。また、拙者の出身の岩手であれば、豊富な森林、海洋、太陽と、自然エネルギーの宝庫である。原発に頼らずとも、エネルギーの自給は十分可能である。どうして都会と歩調を合さなければならないのか。

貴方の講読されている新聞、脱原発派それとも推進派?

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2011年7月27日水曜日

碁石観光祭

今月、末崎に4日程帰省したことは報告済みである。まだ述べていなかったが、この目的は「復活アルバム」制作用の基本となる、保育園から中3までの記念写真や、同級生らと写ったスナップ写真を調べに行ったのである。

スナップ写真はデジカメで撮り、主要な記念写真は東京に持ち帰りスキャナーで取り込んだところである。拙者の所有する写真の処理は完了し、サイトにアップしたところだ。あとは、重複しないように同級生から集めるだけである。

改めた思うのだが、昭和30年代の小学校時分のものは本当に少ない。中学3年になって、やっと増えてきたようである。特に、東京方面の修学旅行や、盛岡で開催された中体連の時のものが多く、カラーも何枚も混じるようになっている。

収集した中で、末崎町と関連する思い出の写真を少しずつ紹介していきたい。

先週末、アナログTV放送が終了したが、TVの普及する以前の写真を紹介する。

東京オリンピックが開催されたのは小6の時である。直前の数年間に末崎町においてもTVが一気に普及した。屋根にアンテナが設置されるので、そのことがよくわかる。TV普及の前は、子供は外で遊ぶのが仕事だった。小学の高学年になると、外で遊ばなくなった。下校するとTVにかじりつく生活に一変したからである。我々が「テレビッ子第一世代」になってしまった。
 碁石観光祭にて (1959/4/29)

この写真は昭和34429日と思われる。碁石海岸で毎年開催される「碁石観光祭」の時である。同じ小細浦地区(当時、部落と呼ぶ)の遊び仲間と偶然に出くわし撮ったようである。皆、水鉄砲でポーズを決めている。ちなみに、上右端の御仁がいわゆるガキ大将のTアンヤ(目上の近しい男性の敬称、女性は「アンネ」と呼ぶ)である。TVの無い時代は、ガキ大将をリーダーに、部落単位で遊んだものである。春秋は野球、夏は地元の入江で泳ぎ回り、冬は田圃で八回戦(当時、末崎で興じられていた競技、いずれ紹介したい)で汗を流した。だが、TVが普及するにつれて外であまり遊ばなくなり、「ガキ大将」は過去のものになってしまった。

娯楽の少なかった当時、今では信じられない程の花見客が碁石海岸に詰めかけた。噂では、大船渡市の人口に相当する人が集まったというが、大袈裟であろうが、それでも1万人近くは来たのではと思うくらい凄まじいものであった。当時は碁石行きバスの定期便は無かったと思うが、この日に限り大船渡や細浦駅から臨時バスが何台も増発された。途中の停留所で乗ろうとしても既に満杯状態で、結局何台も待つか、一時間程かけて碁石まで歩かなければならなかった。自動車は稀な時代ではあったが、碁石海岸入口付近の砂利道に沿った草地には、何台も横列駐車し、その長さが100m以上もあったのではと記憶している。

当時、市内の桜の名所は碁石だった。広場の周囲に植えられた大きな桜の木が一斉に花開くのである。松林と雄大な岩壁、そして広大な太平洋。花見スポットとしてこれほど優れた場所は知らない。松林の木陰、岩場など、おもいおもいの場所で、宴会の御座が敷かれたのである。

碁石観光祭には暫く行ったことがない。おそらく、当時の賑わいはないであろう。娯楽の多様化、花見スポットも他にもできたこと。碁石にはいつでも気軽に自動車で行けるようになったこともあろう。また地球温暖化のせいか、4月29日の頃には桜が散っているらしい。

そして、思うに、当時は大っぴらな男女交際は控えられたもので、外で若い男女が羽を伸ばせるのは「碁石観光祭」が格好のチャンスだったのではなかろうか。「藪のなかでアベックがキスしているのを見た」と、観光祭後の教室でたわい無く噂し騒いだものである。当時、子供だったので、その辺は想像の域を出ないが・・・。
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2011年7月26日火曜日

自転車は未来を救う

輪行を話題にしたので、自転車を次世代の交通システムの要にしてはどうかと、暴論と一笑されるであろうが、拙者の考えを紹介する。


自転車は偉大な発明だ。

牛・馬に頼らず、ガソリン・電気に頼らず、自転車は走れる。
今問題の、「排気ガス」も、CO2」、「放射能」も排出しない
出るのは人の汗だけである。


CO2排出削減と脱原発(節電)を国として真面目に取り組む強い意志があるならば、「自転車を次世代交通システムの要」にすべきと拙者は思う。

変革には大きな反発が

だがそういう声は全く聞こえてこない。天下り天国の世に有り得ない話しであるが、仮に国に自転車重視の動きがあれば、産業界は黙ってはいない筈だ。税務当局も税収減で嫌がる。輸出で外貨が稼げなくなるとか、国際競争力が落ちるとか、失業が増えるとかお嘆きの関係者も多い。

しかし、この強烈な反発を乗り越えなければ改革はできない。大量生産・大量廃棄は誰もが認めるところである。反発を恐れて何も変えず、今までの生産活動を続けていたのでは、日本列島、いずれ産業廃棄物と原発のゴミで一杯になってしまう。何の責任もない未来の世代に、この厄介なゴミを押し付けようとしているが、可愛い子供や孫を見て、政財界の長老達はなんとも思わないのだろうか。地球温暖化防止も絵に描いた餅になる。

自転車に較べ乗用車がいかにムダか
ちなみに、昨年の自転車と乗用車の国内生産台数を調べてみた。

自転車:1005万台
乗用車: 831万台

自転車の重さは15kg前後。一方、乗用車は、軽自動車でも少なくとも700kg、平均で1000kg前後のようである。人間の15倍以上、自転車の60倍以上の重量物を移動手段にしている訳で、エネルギー消費・資源消費の点で、自転車という遥かに効率的な代替手段があることを考えれば、非常に馬鹿らしいのである。

自転車専用道を全国に

自転車は10kg以下の超軽量型も開発されている。動力補助機構を搭載したモデルも普及し、これまで弱点だった登攀能力の問題もクリア。あとは自転車専用道の普及である。鉄道のような平坦な自転車専用道を大都市中心に全国ネットで構築できれば、次世代の交通システムとして大いに期待出来る。

専用道には太陽光発電パネルの屋根を設け、そこで発電された電気は補助動力源の充電に利用する。屋根があるので、雨天でも安心して走行できる。専用道の下には、超電導送電ケーブル、下水、水道等のインフララインを埋設したらよい。自動車道路ほどの道幅は不要、傷みは少ない。だから建設コスト、維持コストの面でも有利である。エネルギー資源の大幅な節約はもとより、公共事業経費の節約にもつながる。長距離移動用に、新幹線や在来線に自転車専用車両を連結し、折りたたまずに乗れるようにする。駅舎も、ホームまで自転車がスムーズに移動出来るような構造に変えていく。

車を減らし省エネ節電都市へ

複数で車を共有するカーシェアリングが、いずれ一般化するであろう。更には、車の利用を自転車利用に転換できれば、乗用車の生産台数を大幅に下げることが期待でき、資源や電気の消費量が自ずと削減される。交通渋滞が無くなれば、都市の地下鉄を地上に戻し、遥かに省エネでお洒落な路面電車に代えていく


以上、交通インフラを見直すだけでも、次々と節電のアイデアが浮かんでくるではないか。そして、エネルギー自給の可能性が見えてくる。とにかく、危険な放射能を吐き出す原発に頼らなくてもよい社会が実現できるのが、何よりであると思うのだが、如何なものであろうか。

「自転車は未来を救う!!


実に単純明快。後は実行あるのみである
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2011年7月25日月曜日

仏国1周自転車旅

先週、滑りこみセーフで地デジ対応TVを購入した訳だが、CSチャンネルを頻繁に切り替えていると自転車ロードレースの映像が一瞬目についた。ツール・ド・フランスである。今季は終わったと思っていたのだが、終盤の山岳コースに入っていた。

世界最大のロードレース、ツール・ド・フランス。一時は国内でも放送されていたものであるが、ヨーロッパサッカーやF1程には国内に定着しなかった。当時の放送では、ミゲル・インドゥライン選手が大活躍した前後であるから、20年程前になるか、早いものである。

 

当時の放送は、コース終盤からゴールまでがライブ放送で、その前はビデオ編集で短縮されていた。このCS番組では一切ビデオ編集はない、全てライブのようである。山岳コースの激戦は面白い。特に、峠を越えた後の長い下り坂の、スピード感溢れるレースは爽快である。その日のゴールは、長い坂道を登り切った地点に設けられているので、実に意地悪なコース設定である。が皆同じ条件、文句は言えまい。

 

強靭な体力、持久力、精神力、そしてロードレース特有のチーム戦略やサポート体制。個の力だけでは勝利することができない。今回、日本人選手は参加していなかったようだ。体格的に貧相な大和民族には不向きな競技かもしれない。しかしこのハンディを乗り越え、かってのMLBの野茂投手や女子ゴルフの岡本綾子のように、注目選手がでることを期待したい。

 

昨夜はパリ凱旋の最終区間。凱旋門前の周回コースには多くの観衆が詰めかけている。いつもは車で溢れている街路樹の大通りを、この日ばかりは自転車の一群が蜂の群のように独占している。このようなシーンを、東京青山通りや神宮外苑あたりでも見られることを期待したい。


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2011年7月24日日曜日

登山から輪行に

ブログ村のリンクに「輪行」を設定して10日も経たないのに、意外なことに10位内にランクインしている。そこで、輪行を始めたきっかけを紹介しておくことにする。

自転車は本当にブームか?

自転車はいつも何らかのブームであるが(かってはマウンテンバイク、今日はフォールディングバイクか)、輪行していて同好の志と道で遭遇することは稀である。とくに山中の林道に入ると、オフロードを楽しむオートバイの一群には時々出くわすが、自転車は先ずいない。体力の有り余るお若い方々は、いったいどこを走っているのだろうかと不思議に思うのである。林道は路肩の崩れや落石で通行止めになっていることが多い。そこを承知で入っていくと、その区間は僅かで、自転車では問題なく通行できる。全く車の排気ガスを吸わされることなくサイクリングが楽しめるのである。車の通行に煩わされながら、幹線道路を走る気持ちがよくわからない。自転車はブームと言っても、輪行は未だ一般的ではないように思える。だから短期間で、しかも当ブログで輪行の話題は少ないながらもランクインしてしまうのであろう。
路肩の崩れた林道と輪行自転車4号
(長野県美馬村、輪行日:2005.7.23)
※オールアルミで登攀力抜群の軽量自転車であった。
今年90歳になるオヤジが愛用していたのだが、
津波の翌日、門の浜で盗まれたらしい・・・。
当時はガソリンが無く、道も瓦礫で埋まり車は使えぬ。
自転車の価値が見直された時でもあった。
末崎では見掛けないデザインなので、
オヤジ以外が乗っていれば当然怪しまれる。
しかし目撃情報は無い。
海に捨てられてしまったのだろうか。
謎である。


輪行(自転車を電車やバスに積み込んで遠出しサイクリング)をし始めて20年になる。年がら年中、出かけている訳ではない。気が向いた時に出かける。その季節はズバリ夏。それ以外の季節は数える程度である。

以前は山登り

輪行の前は、テントや食料を全て担ぎ、主に北アルプス方面の縦走を楽しんでいた。30代後半になると、体力的に限界であった。軽身で山小屋を利用する手もあるが、仕事が忙しかった20代の週末にこの安直な手段で山登りをしていたこともあり、ガツンとしたインパクト感が得られない事を知っていた。山は、真夏に背中の重さに耐えながらも、テントを担いで気ままに歩きまわるのが好きだ。特に、日が昇る前の未だ薄闇から周囲が徐々に明るくなりだす早朝が最高の気分に浸れる。だから朝の行動は早い。夕食を済ませて眠るのが6pm、翌朝2amに起き、朝食を済ませ、テントを撤収。出発は330am。外はまだ自分の足元が見えないほど薄暗い。テント場で一番最初に出発すのは、大抵拙者である。周囲のテントでは未だ出発前の準備でゴソゴソしている。

山腹の雪渓、高山植物、雪解け水等々、全てが神秘的に見えるのもこの早朝である。山頂に到達するころに御来光。朝日が地平線から昇る時はそれほど感動的ではない。一日の猛暑の始まりであり、淡い夢からこれから難路に苦闘するであろう現実に目覚めさせられる一瞬でもあるのだ。むしろ、薄暗いなかに地平線の彼方にほのかな朝焼けが見え始める時の方が素敵だ。とにかく、未明から御来光までの僅かな時の間に、光が微妙に変化していく。この時が山で最も感動的な一瞬であり、寝袋でゴロゴロしている訳には行かない。これが、早朝出発の大きな理由である。山小屋では、他の登山客の迷惑を考えると、未明にガサゴソ音を立てるわけにはいかないのである。

輪行自転車1号 輪行山里巡りに

テント場をダントツで出発しても、大学の山岳パーティーや山小屋利用の軽装組に途中で抜かれてしまうのが常であった。体力の著しい衰えを感じていた時に、自転車を列車に載せて山域近くの駅で降り、山里巡りのサイクリングも面白のではと思うようになってきた。そこで近所の自転車屋に行き、輪行用の折り畳み自転車を紹介してもらった。それが下の写真のTRAVEZONEである。当時、今風の車輪の小さなコンパクト自転車は無かった。折り畳んで輪行するモデルは非常に限られていたのである。

結局、輪行用に入手した自転車第一号は、このTRAVEZONEである。その後、何度も浮気し買い替えた。言ってみれば、これが拙者の正室と言える。だいたい、政略結婚とか家と家との関係で、愛情無しに親の言いなりに結婚するとろくな事がない(たぶん・・・)。その後側室を抱え次々に替えていく。人間様の例え同様に、この不細工な一号自転車での輪行の思い出は少ない。輪行は3回程度で、その後買い換えてしまうのである。相手は自転車様なので、何度浮気してもお許しいただけるだろう。

輪行自転車 第1

この写真は二回目の輪行で、中山湖湖畔で1989.9.24に撮影したものである。

ルートは次の通り。
-----------------------------
河口湖駅(新宿から電車)
山中湖→山伏峠→道志→津久井湖→橋本→多摩センター(新宿まで電車)

1:当時、橋本・多摩センター間には京王相模線が通っていなかった。
2前の週は、中央線上野原駅まで輪行し、藤野町の山域に入り、峠を越えて都留に抜け、
        長い坂道を登りこの河口湖駅まで達し、河口湖畔を回り、きた道を戻り長い下り坂を
        大月駅まで駆け降りている。
 -----------------------------

中山湖から道志への道は一部未舗装区間があり、タイヤが細く華奢なTRAVEZONEでは走りにくいことが判明した。またパンクの心配もある。地図には未舗装の有無は表記されていない。知らずに行って、未舗装区間の山中でパンクでもすれば悲惨である。この理由で、五年後に今風のコンパクト自転車に買い換えるのであるが、それまでは輪行は本格的ではなかった。

輪行自転車2号での山里巡りの思い出は多いので、別の機会に紹介したい。

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2011年7月23日土曜日

放送界は群雄割拠

アナログ放送が明日で終了する。

時代の政策には抗えず、地デジ対応のTVを導入して3日。操作も馴染んできた。お恥ずかしながら、CS多チャンネル放送が受信できるとは意外であった。一方で、NHK BS2のチャンネルが見つからない。BS1BS2、それにBSハイビジョンの3チャンネルがあった筈だが・・・。ネットで調べたら、BSハイビジョンが3月でサービスを終了していた。

CS多チャンネル放送のせいで、落ち着いてTVを見ていられない。頻繁にチャンネルを切り替えるからであが、それも3日経過すれば、どのチャンネルが拙者のニーズに叶っているかわかってきたようである。

地デジNHK1BS1BS2CSスポーツ関連とBBCCNNの国際ニュースチャンネル・・・。

それ以外は、特別な番組が無い限りスルーのようだ。多チャンネル放送とインターネット放送で、今後、安直なバラエティー番組に終始する民放は危ういだろう。

かってPC98シリーズで業界を席巻したNECパソコン。DOS V + Win95 OSのオープン環境のパソコンの登場で市場から消え去り、またPC98パソコンで動作していた幾多の日の丸ソフトも今日殆ど駆逐されてしまった。日常利用する汎用ソフトは、今では和製のものは皆無である。日本語入力機能さえも、グーグルサイトからダウンロードした「Google 日本語入力」を利用している始末。事業仕分けでガタガタした世界最速スーパーコンピュータ云々のお話ではない。情け無い状態である。

民放の危機を憂いても致し方ない。来るべきものは来るのである。

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2011年7月22日金曜日

独国からの高校生ボランティア

在京の高校同窓生Nチャンから電話があった。田舎の教育委員会に再度問い合わせてみたら、先方の反応が非常に良かったと明るい様子である。

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最近、頻繁に彼女から連絡があるのだが、ドイツで日本語を教えている知人の先生(日本人)が、ベルリンの高校生を引き連れて気仙にボランティアに来たいらしいのである。最初、教育委員会側に問い合わせた所、反応が芳しくなかったようで、どうしたら良いだろうかとの相談であった。

当初相談があった時に、滞在を受け入れてくれる現地のホストファミリーを探してみてはとアドバイスした。被災していない地域も多いので、受け入れてくれる家は沢山ある筈と、拙者も呑気に対応したのである。その後、他の同郷出身の二人の友人に相談したところ、何れも即「絶対ダメ」とネガディブな反応だったらしい。来仙する人数が20名前後となると、それだけのホストファミリーを見つけなければならない。しかも滞在期間が一週間以上となれば、確かに受け入れ側、学生側双方に大きなストレスを抱える可能性がある。そう思うと、拙者の考えは甘かったようである。

その後また連絡があり、遠野に団体用の宿泊施設があり、そこを拠点にするらしいとのことである。これで、滞在という大きな難関がクリアできた。来日の目的は一応ボランティア活動である。気持ちは有難いが、危険の伴う作業が多い現状、多くは期待できない。

そこで、小中高の授業参観は面白いのではと提案してみた。学生の多くは日本語を習っている。日本の学校でどのような授業が行われているか、彼らにとって興味がある筈と思ったからである。更には、「国語と数学」の授業が最適ではないかということ、「英語」だけは担当教師のプライドを傷つける可能性があるので止めた方がよいのではと付け加えておいた。



文化圏の全く異なる遠来の若い高校生に、被災地ばかり見させていたのでは気の毒である。日本の文化の一端に触れてもらうのも、ボランティア活動の一環であろう。学校の授業参観は絶対に面白いと我ながら良いアイデアだと思った。

また、授業参観形式であれば、父兄参観で慣れている訳で、授業の支障にはならない。受け入れ先の学校でも、国際交流と銘打った形式的な歓迎会を催す面倒もなく、負担が少ない筈である。

教育委員会の現メンバーを聞いたら、偶然にも我々の一年先輩も入っていた。拙者学生時分にもお世話になっている。面倒見の良いこの先輩に直接コンタクトし、相談するのが話が早いのではと進言するものの、彼女、全くご存知ないと尻込みの体であった。「最近足を挫いて骨折したの・・・」と漏らし、ボランティア受け入れ問題が進捗しないことも重なり、どこか浮かない様子なのである。いつもなら、家族を引き連れて欧米を旅行して歩く、好奇心旺盛かつ社交的な彼女であるのに、どこかヘンなのである。遅れてやってきた「更年期障害!?」と思った。


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そして今回の朗報だった訳である。彼女から「授業参観形式」と教育委員会の方に具体的な提案をした所、若い担当者の反応が非常に好意的なものに変わり、来週には先方より連絡が来るらしいのである。これで、大きく前進しそうであり、声の様子も明るかった。

「あれ、調子悪いんじゃないの?」と問うと、「いや元気が出てきた!!」と先日の弱気の虫がどこかに消えてしまっているのである。やはり「更年期障害」ではなかったようだ・・・。

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2011年7月21日木曜日

陸前高田の想い出

陸前高田は山側の迂回路を通る。下方遥かに被災した市街地と広田湾の海が木々の間から見え隠れする。今後どのように復興していくのかは、正直想像がつかない。一昨日購入した佐野眞一の「津波と地震」を読み始めたのだが、明治の大津波と昭和の三陸津波では、陸前高田()は殆ど被害が無かったらしい。これが、一つの油断であったのだろうか。

昭和30年代の街の様子
旧市街地の菅勝書店の筋向いに親戚の家があり、祖母に連れられてよく行ったものである。その家の裏手には水田が広がり、大船渡線を越えた彼方に、高田松原の松林が遠望できた。陸前高田駅は、旧市街地から離れた水田地帯の中にあるのが不思議に思ったものである。当時、被害が少なかったとしても、津波波に対する警戒は一応していたのではないだろうか。山裾に沿って町家集落が形成され、高田松原との間には広大な水田地帯があり、そこには人家は全く無かったと記憶している。この水田地帯が、時を経るごとに新興の商業・行政地区に様変わりしてしまった。

親しいオジ・オバは既に故人となり、家は世代が変わり、ここ何十年も行ったことがない。3.114人家族全員亡くなったようである。高台が近くにありながらである。油断があったのかも知れない。車で避難する際に、交通渋滞に巻き込まれたのだろうか。発展する以前の町のままであれば、高田松原を乗り越える巨大な波しぶきを遠くから確認でき、それからでも高台へ逃れることができたのではないか。そう思っても、今となっては致し方ない。海岸から離れた旧市街地が巨大な波で覆われてしまうなど、誰も想像さえしたことが無い筈だ。

大船渡線の列車から見る、氷上山の麓に広がる市街地の佇まいは、急峻な山が海まで迫った三陸特有の景観とは異なり、どこか優美さがあった。お隣末崎の出身ではあるが、気仙の地に戻ることがあったなら、広々とした温暖なこの町を拠点にしようかとも思ったくらいである。これを実現する前に、津波が街を飲み込んでしまった。

高田の親戚の家に行った帰りには、旧市街地の古い商店街の道を通り抜け、左折して真っ直ぐな駅前通りを駅まで歩いたものである。末中に入学した当時、菅勝書店まで何度か自転車に乗って行ったことがある。将棋の本を立ち読みし、駒の動かし方を覚えたのもこの老舗の書店であった。その後部活が忙しく、足が遠のいてしまった。成人してからは、帰省時の行き帰りに車窓から眺め、高田松原沿いのリップル等の大型店に車で買い物に行く程度で、旧市街地まで足を延ばすことはなかった。一度また歩いてみようかとふと思う時があった。今となってはかなわぬ夢となってしまった。

津波の到達地点に近い気仙川の橋を渡り矢作に入る。ここから暫く長い登りが続く。険しい峠のトンネルを抜けて長い坂道を下ると、被災地とは別世界の北上山地ののどかな山村風景が見えてくる。気仙を離れたことを実感する。


PS:思い出の写真
幼少時の思い出深い一枚の包帯姿の写真がある。全く記憶は無いのだが、勢い余って囲炉裏に掛けてあった鍋に突っ込んで頭に大火傷を負った。高田に住む(母の)叔母が心配し、近所の医院を紹介してくれたらしい。そこに暫く通院し、お陰で火傷の跡はすっかり消えてしまった。この写真はその病院近くで撮ったものかもしれない。昨夜、田舎の母に電話で聞いてみた。「高田医院」とのこと。お世話になった先生は、随分昔に仙台に移られたようだ。この医院のあった周辺も、全て流されたのではないだろうか。
包帯母子
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2011年7月20日水曜日

上京の日

田舎に何日も滞在したと思われるであろうが、実際は3泊し4日目に上京した。

午前中に小細浦の入江と中学校の様子を自転車で見て回り実家に戻る。一ノ関行きのバスが盛発130pm過ぎ。実家から盛のバス停まで、輪行の自転車で行く。余裕をもって早めに出発する。

末崎から盛へ
途中、細浦地区の中野バス停付近で写真を撮る。この付近は大船渡線の堤防で大丈夫だろうと思ったのだが、陸橋下の国道に沿って侵入した波で何軒か流されている。
中野の停留所付近から大船渡線の陸橋


峯岸の同級生宅にも立ち寄り、「復活アルバム」の件を話し写真の提供をお願いする。42の本厄の年に制作した立派なアルバムを見せられる。初めて見てた訳で、拙者注文していなかったようである。次の帰省時に全頁をデジカメで撮影し、「復活アルバム」に収録しようかと思う。

盛でバスに乗る
津波はJR大船渡線の終点盛駅付近まで達しており、3月の帰省時には周辺のお店は休業していた。駅より上流側では流失家屋は無く、復旧は早かったようである。

お隣の陸前高田では6km程沿岸から離れた竹駒・矢作地区も、気仙川を遡った津波により大きく被災している。一方、盛地区は湾奥の岸壁から僅か数キロしか離れていない。平坦で大船渡市の行政地区でもある盛市街の中心部はなんとか無事であったのは、大船渡湾の独特の地形によるものと思われる。

大船渡湾・広田湾付近のマップに、両市中心部の被災エリアを示しておく。
 大船渡湾と広田湾(Google(r) Map)

大船渡湾は右上方に曲がり、また狭い湾奥には珊瑚島がデンと構えている。
この地形により、津波のエネルギーが減衰したものと思われる。

4ヶ月前に津波に襲われたとは思えないサンリア前のバス停で、自転車を折り畳む。一ノ関行きのバスは、日に二本の運行で、早朝に一本そしてこの時間であるが、乗客は僅か34名と少ないのは意外である。
 盛のサンリア前で自転車を輪行バッグに入れる

通岡トンネルへの上り道から大船渡湾を一瞥する。船河原地区の集落が下に見える。この地区の海岸沿いには大船渡線の堤防があり、何件かの流失はみたものの、隣の細浦地区に比べ被害は遥かに少なかった。津波の巨大さを考えたら、奇跡的である。大船渡線の開通は昭和10年前後であるが、付近の堤防は破壞されておらず、当時の土木技術の確かさを再確認する思いがする。
奇跡的に被害の少なかった船河原の集落
自動車専用道のトンネルを抜けると、そこは陸前高田市である


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2011年7月19日火曜日

佐野眞一著「津波と原発」

歯の治療に通い二ヶ月。その間、左上の奥歯2本の根幹治療を行った。前回は歯型をとり、新たにナイトガード(マウスピース)を作ってもらう。来春の次回定期点検まで解放されそうだ。美人看護師さんに暫くお会いできないのは残念ではあるが・・・。

その後、駅近くの家電屋に行き、地デジ対応テレビの値段や性能を調べる。よさそうなのが一つ見つかるが、持ち合わせが十分でないので、出直しとする。

同じビルの1Fに本屋があるので立ち寄ってみた。佐野眞一の本に目が止まる。「津波と原発」。上梓されたばかりのようだ。

同氏の著作はこれまで何冊か読んでおり、自然に手が伸びて立ち読みする。文中の「陸前高田」の文字が目に入る。3.11直後に、県立高田病院、広田半島、大船渡の赤崎地区に、知人や紹介された漁師を探し訪ね歩いたようである。お楽しみは後にと、購入してしまう。

読んだら、いずれ紹介したい。

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縮・原発?

反原発、脱原発、そして新たに縮・原発とか。
言葉遊びにもいい加減付き合いきれぬ。

縮・原発論の経済同友会、
曰く「原発全廃ではなく、安全性の高い原発を実用化し、世界に貢献することが必要だ」とか・・・。

安全性の高い原発とは・・・

1.    放射能を発生しない原発。

2.    月とか火星でやる原発。

3.    頻繁に放射能漏れ事故を起こし、原子炉に放射能を溜め込まない原発。
(
要するに、使い物にならない原発)
今回のフクシマのように、一度に大量の放射能を撒き散らされてはかなわないから。

それ以外、安全性の高い原発ってあるの・・・?

彼らにはセシウム汚染牛肉を是非食べて頂き、内部被曝の疫学調査に協力することで、世界に貢献て頂きたいものである。


PS:
最も危険な原発とは、絶対安全と言われる原発。

事故らなければ、それだけ大量の放射能を溜め込み、一層危険な状態になる。
だから、「安全性の高い原発」とは本来矛盾するもので、意味のない枕詞に過ぎない。


「安全な戦争」とは決して言わない。同様に「安全な原発」と言うのは存在しないのである。「安全」の裏に、とてつもなく大きなリスクが潜んでいることを忘れてはならない。

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2011年7月18日月曜日

夢から現実に

深夜3時が限界だった。
試合開始まで後40分と聞いてガックリ。
こりゃ無理だと消灯する。

目覚めたのは朝7時過ぎ。
あわててTVにスイッチを入れる。
選手のインタビュー。
勝ったのか負けたのか暫く分からない。
ペナルティキック戦の末勝ったらしい。

寝ぼけでピンと来ない。
激戦の行方にリアルタイムで一喜一憂しないと、
結果を聞いても実感が湧かないものである。
おめでとう、なでしこジャパン・・・。

すると、ニュースの映像が換わった。
見覚えのある広田湾、
陸前高田の市街地跡を遠望している。
子供の頃から知っている街の、
破壞された映像を見ると胸が痛む。
夢から現実に引き戻される。


10時から熱戦の模様が再放送されるようだ。
その時、優勝の感激に浸るとするか・・・。
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2011年7月17日日曜日

小細浦の入江


ここは町で一番波静かな入江です。
夏、子供達は安心して泳ぐことができました。
でも今は、彼らの歓声が聞こえません。
随分昔に、遊泳禁止になってしまったのです。

津波を防ぐ為に、湾口に巨大な防波堤ができました。
生活用水が滞留し、大腸菌の数が増えてしまったからです。

海の見える高台の小学校に、プールができました。
海が近くても、海で泳いだことがありません。

3.11に防波堤がどこかに消えてしまいました。
夏、子供達の泳ぐ姿が戻ってくるかも知れません。
町で一番穏やかな入江ですから。

 いつも波静かな小細浦の入江
(正面の山は飛定地山)

※1960年のチリ地震津波では、この湾内の海水が全て引いて海底が露出した。
そこで遊んでいると、大人に「早く上がれ」と注意され、高台に避難する。
暫くすると50cm位の波が湾奥に向かって侵入してきた。
第一波に比べ波は相当減衰していたようだ。
被害は海岸近くの水田が冠水した程度。
その後、水田で海の魚を追い回して遊んだものである。



上京する前に、地元小細浦の入江の様子を見に行く。

陸に引き上げられた船を左手に見上げながら造船場を過ぎると、小さな浜辺(写真右側の人家の手前)がある。そこが地元の水泳スポットであった。大船渡の湾奥を向いたこの入江は、いつも波立つことがない湖面のような静けさである。牡蠣棚(養殖筏)や停泊中の無人の漁船に無断で上がっては、海中に飛び込んで遊んだものである。遊泳禁止になって久しい。
写真で見ると、その浜は地盤沈下で狭くなっている。

3.11では、周辺の家屋や食品加工場が被災した。瓦礫は相当片付き、海岸沿いの加工場は操業再開に向けて準備が進んでいるようである。

大船渡湾口防波堤の消失の前&後

右側防波堤の付け根部分が、末崎町で「トンボロ」と呼ばれる海岸である。
この防波堤は、外洋からの海水の流入を妨げ、水質悪化の元凶となっていた。
以前のような、きれいな海になることを期待したい。
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2011年7月16日土曜日

カウントダウン


チョット忘れた頃に、突然ドンと来た。
震度4
3.11の地殻変動以来、どこかヘンな余震で列島が揺れている。
終息に向かっているのか、
何処かで起きる次の巨大地震の準備運動なのか、
誰も知らない。

吉村昭の
「関東大震災」
を読んでいる。

知らなかった多くの事実が淡々と描写されている。
これと同じものが、今起きたら絶対にヤバい。

あれから90年。
都市は遥かに巨大に、
高層ビルは林立し、
地下鉄が縦横に走り、
道を無数の車が往来している。
危険な要素が、かくれんぼの如く街一杯に潜んでいる。

一方では、
生きている間この街に来やしないと、
根拠無き楽観論で暮らしている。
そして、次の関東大震災の日まで、
都市への集中が益々進む。

 人間、お金の前では、学習しない動物だから。

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2011年7月15日金曜日

NHKで放送:ワカメ養殖発祥の地

昨日、1pm過ぎのNHK BS1の番組で、碁石海岸にある「ワカメ養殖発祥の地」の顕彰碑が映り、末崎町のワカメ養殖の歴史とその復興にかける泊里地区の漁師さんが紹介されていた。番組の冒頭に、養殖ワカメ復興にかける町の取り組みという予告があり、どうせ県北の事だろうと勝手に想像していたものだから意外であった。
NHK BS1で放送

今回の帰省中に偶然にもこの顕彰碑を見つけ写真を撮っており、わが町の自慢としていつかブログで紹介するつもりだったのでタイミングが宜しい。
碁石海岸の「わかめ養殖の地」顕彰碑

ワカメと言えば三陸ワカメ。東京でも近頃有名である。それもそのはず、海中につき化学肥料・農薬等は一切使えぬ、使う必要がない、プランクトン豊富な三陸の海で育つ、完全無欠な無農薬野菜と言える。塩分を抜いて熱湯に浸すだけですぐ食べられ、風味は新鮮、長期保存が可能と、何かと便利。ヘルシー志向の忙し現代人に受けないわけがない。

養殖の先駆けがとなった人物が、わが町門の浜の漁師、小松藤蔵氏である。実はそのことは、拙者高校を卒業し町を離れるまで知らなかった。ワカメは天然物とばかりと思っていたのである。ちなみに、同氏のご子息が拙者の二年先輩におり、器械体操部員として、顔を赤くしながら鉄棒の大車輪の技に取り組んでいたのを思い出す。
わかめ養殖 碑文

当時、乱獲を防ぐために、ウニ・アワビと同様に、天然ワカメを採取できる解禁日が定められていた。その日は、早朝から漁師が一斉に小舟(カッコ)を駆って目的の磯に向かい、限られた時間で競うように採ったものである。我が家では津波で小舟を失っていたので、母と未明の早朝に家を出て、裏山の峠を越えた人里離れた浜に行ってものである。初夏の未だ冷たい海水に浸かりながら、鎌で刈り採る。制限時間が過ぎたら、刈り採ったワカメを小石の浜辺に敷き詰めて天日干し。十分乾いたら拾い集め、背中に背負い、元来た急な山道を登り運んだものである。採取した天然ワカメは、後日漁協に卸し、僅かばかりの現金収入となった。

田舎を離れ何年かしてから、養殖ワカメや養殖ホタテを地元の直売所で目にするようになった。以前の漁業と言えば、近海のイカ釣り漁や何日も家を空ける遠洋漁業が主体で、大漁・不漁と生活が非常に不安定だった。我々が中学を卒業した当時、高校に進学せずに就職する者が少なくはなかったが、その多くは大工や左官等の職人見習で、漁師になる者は殆どいなかったと思う。

その後普及した養殖業は、従来の漁業と異なり、農業と同じ育てる漁業となり、町の主要産業の一つとなった。このお陰で、漁民の生活が随分安定してきたようである。最近では、末中の生徒達も、体験学習の一貫としてワカメ養殖を行い、修学旅行の際には育てたワカメを新橋や東銀座のショップで体験販売も行うようになった。このように、町全体で養殖ワカメのPRおよび後継者の育成に努めてきたようである。

実は、3.11の数ヶ月前だったか、やはりNHKの放送で末中の後輩諸君のワカメ養殖のことが、首都圏で紹介されていたことがある。この取材の過程で、「ワカメ養殖発祥の地」として報道側も既に認識していたものと思われ、今回の再取材に繋がったのではないだろうか。これまでのPR活動がムダではなかったようである。

末崎で始められたワカメ養殖は、今では三陸沿岸に広く普及した。自由競争の市場。わが町が本家本元だとアグラをかいてはいられないが、「ワカメ養殖発祥の地」と誇るのは末崎町の特権である。今回、津波でどの地域でも等しく大きな被害を受けた訳だが、養殖業を復活させ、新鮮なワカメが市場に出回る日が遠くないことを願っている。

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