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2011年10月30日日曜日

自転車ぶらり:神田古本祭、ほか

今週末は、台東区の一葉記念館に行くことにしていた。昼食後、自転車に乗り向かったのではあるが、日の短い昨今、帰りは暗くなることに気づいた。着脱式ヘッドランプは置いてきてしまった。それに空模様も怪しげである。毎度のことながら、本日の目的地を変更する。


時代の変化:

新宿駅南口の雑踏が、御苑手前の都立新宿高校まで続いている舗道を通過する。高校案内のようで、校内には父兄(とはいっても殆が母親)が行列をなしている。高校も、いよいよお受験ブームか。随分異様な光景である。

四谷駅前を通過し、九段まではできるだけ平坦な道を選ぶ。この坂を下り、首都高下の橋を渡ると、見慣れた神保町外れの街並みである。ここには、10数年間時々来たものである。というのは、DTP(デスクトップパブリッシング)データの大手出力サービスセンターがあったからである。マッキントッシュ・パソコンでレイアウトしたデータを、印刷用製版フィルムに4色分版出力してくれる。当時は、DTPの黎明期であり、出力不能のフォントが紛れ込んでいたり画像リンクが外れていたりと、いろいろトラブルが発生したものである。締切期限が迫り、ドキドキしながら原稿の出力結果を祈るように、近くの喫茶店に入り暫し待っていた。大通りの反対側にあるその1Fのオフィス付近をみたら、どうも様子がおかしい。横断歩道を渡り、そのビルの前にくると、賃貸の案内である。少なくとも数年前までは、Macパソコンが何十台も整然と並び、周囲には高額な出力関連機器が置かれ、何十人もの専門スタッフが働いていたオフィスである。それがもぬけの殻なのだ。最近の印刷前行程は、製版フィルム不要のCTP(Computer to plate、直接製版)の時代に完全に移行したようである。印刷データをPDFに変換。そして、地方の印刷会社にメールで送信すれば、中2-3日程度で高品質の印刷物が宅配便で届くようになってしまった。しかも低料金である。高い都心の家賃では、かつて隆盛をきわめた出力サービスセンターとはいえ、ビジネスとして成り立たなくなってしまったのである。


神田古本祭:

その賃貸に出されたオフィスの側で女性が電話していた。よく見ると、見覚えのあるお顔である。向こうも気づいた。かつて拙者の近所にあった中華レストランを手伝っていた上海出身の娘さんである。神保町にも出店したことは聞いていたが、この賃貸に出されたオフィスの隣がその中華レストランとは奇遇であった。彼女、神田の古本祭に来たものと思ったようである。古本屋街方面を見ると確かに多くの人が集まっている。彼女にいずれの来店を約し別れ、予定を又々変更し、古本探しをすることにした。



何店舗も回ったが、目指す本はなかなか見つからないものである。が、以下の古本4冊を入手した。

一葉日記*、湛山回想、東京の三十年(田山花袋)*、生い立ちの記(島崎藤村)
    (*は以前読んだことがある本)

本日は一葉記念館にいく予定だったので、一葉日記とは丁度よい。以前読んだものは一部省略されていた。完全版であるのは嬉しい。湛山回想は、石橋湛山の回想記である。明治、大正、昭和と、暗黒時代を生き抜いたジャーナリストの人生の軌跡と思われる。同じ、リベラルのジャーナリスト、清沢洌の戦時中に密かに記録していた「暗黒日記」において、湛山を次の様に評価している。

日本は戦争に信仰を有していた。日支事変以来、僕の周囲のインテリ層さえ、ことごとく戦争論者であった。・・・・事実、これに心から反対したものは、石橋湛山、馬場恒吾君ぐらいのものではなかったかと思う。(昭和1943)

花袋の「東京の三十年」は、明治文壇の貴重な回想録である。再読してみることにする。


帰路:

2時間程、古本屋街をうろつき回る。暗くなる前に、往路とは別の道を辿り家路につくことにする。北の丸公園に出る。皇居のジョギングコースから車道を隔てた右手の小高い丘の洋館を以前から気になっていたのだが、初めて立ち寄ってみる。国立近代美術館の工芸館となっていた。以前から、旧軍関係の建物とは思っていたのだが、やはり旧近衛師団指令本部であったのだ。建物の右下には馬にまたがる銅像があった。誰だろうと近づいてみると、なんと「北白川宮能久親王」である。これも意外であった。というのは、吉村昭の歴史小説「彰義隊」の主人公、輪王寺宮その人だったからである。公には、台湾遠征中に病死したようだ。だが、江口渙の説では、実は峠で狙撃されたらしい。皇室出身の高貴な軍人が狙撃されたとは責任問題に発展しかねないと、死因を病死にして発表したというのである。真実は果たしてどちらかであろうか。後者の方が説得力があると思うのだが・・・。
  旧近衛師団司令部と北白川宮能久親王像


雑踏の新宿を回避するため、信濃町駅から神宮外苑を行くことにする。多この人が一方向に歩いて行く。CMシリーズのヤクルト:巨人の二戦が夜あることに気づいた。神宮球場近くに寄り道する。やはりそうである。野球のファンは年配層とマスコミでは言われているが、どうしてどうして、若い世代、しかも女性ファンが意外と多い。マスコミ報道もいい加減である。おそらくサッカーを比較してのことだろうが、こちらはプロ化して未だ20年である。比較するのがおかしい。また、同じ球技といっても、ゲーム形態が全く異なる。野球の良さは、誰でもがヒーローになれるチャンスがあることだ。非力のバッターでも、打席に立てば、ゲームの主人公である。野球はカラオケ的である。歌が下手でも、マイクを握ればコチラのもの。誰も聞いてなくても、大声で歌って気持ちよくなればよい。カラオケ好きの多いこの国には、野球がよく似合うと思うのである。
 神宮球場前の雑踏:クライマックスシリーズ第二戦前(ヤクルトvs巨人)


夜の帳が下りる前に帰着することができた。走行距離は10-15km程度くらいか。紅葉にはまだ早い都心のサイクリング。疲労感が心地好い。

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2011年10月20日木曜日

歌との再会

O高在京OB会に参加の20代の一人が、ピアニストN氏であった。地元では新聞報道等で知られているようである。夕方、別の飲み会を終えて帰宅し、彼のサイトにアクセスしてビデオ演奏を聴いてみた。知らない曲だが、男性的な力強い演奏が印象的である。今後の活躍を期待したい。

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音楽付いてきた勢いで、YouTubeを気ままに検索しては音楽ビデオを聴いていた。気がついた時には、2amを回っていた。床に就く前に、最後の検索を試みてみた。探し求めていた、まさにそのシンガーと曲が見つかったのである。シンガーは英国のクレオ・レーン、曲は「He was beautiful」。今では、「カヴァティーナ」もしくは「ディアハンターのテーマ曲」として知られているが、彼女の歌うこの曲は以前にはアップされていなかった。

35年程前に、当時若手No.1クラシカルギターリストのジョン・ウィリアムズの伴奏がフューチャーされたLPを発見した。シンガーは、拙者には初耳のクレオ・レーン。収録されていた曲は、ビートルの「エリナ・リグビー」、ボサノバの「ウェーブ」、「フィーリング」、「キリング・ミー・ソフトリー・ウィズ・ヒズ・ソング」等で、いずれもお馴染みのポップなナンバー。ジャズ、ボサノバ、そしてクラシカルなサウンドがミックスした軽快なギターとバンドによる伴奏、そして彼女の自由奔放かつ繊細な歌声に聞き惚れたものである。 その中でも、始めて耳にするこの「He was beautiful」が、特に拙者のお気に入りとなった。

それから数年後のことと思うが、映画「ディア・ハンター」を見ていたら、ジョン・ウィリアムズのギターソロとオーケストラによるテーマ曲が、クレオ・レーンの歌った「He was beautiful」と同じメロディーで流れてきたのである。

以来、「ディア・ハンターのテーマ曲」として、特にクラッシック・ギターのスタンダード曲として演奏されるようになった。が、彼女の「He was beautiful」はあまり知られていないようだ。LPプレーヤーも無い現状、レコードも田舎の実家で死蔵されている。何十年振りにこの曲に接し、探し求めていた昔の親しい友人にやっと出会えたような、そんな感じである。どなたか、この佳曲をアップしていてくれた、感謝である。

→クレオ・レーンの歌う"He was beautiful"

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ところがである、この曲がTVの「真珠夫人」主題歌に使われていたことを検索で先程知った。YuoTubeで視聴したところガッカリである。同じ曲、同じ歌詞でもこれだけ違うのかと、この落差に驚いた次第。聴かなきゃよかった・・・。

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2011年10月19日水曜日

O高募金活動報告

江口渙の「少年時代」の報告を一時中断。

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気仙のO高在京OB会に、震災後ということもあり、10数年ぶりに参加した。
参加者は30-40名程。殆どが拙者よりご年配の方。30代と40代はゼロ。例外的に20代が2名参加。議事内容については取り立てて報告することも無いが、最後に副校長殿より、被災生徒への募金活動等の報告があった。それが次の通り。
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在校生の犠牲者は2名、その他親を無くしたケースも多いとのこと。

募金協力者:580
合計金額:620万円
今期目標額:700万円
*現在も毎日のように入金がある。

義援金の使途概要は、部活動費・遠征・宿泊費の補助、修学旅行の補助、センター試験の旅費・宿泊費の補助等とし、随時利用したいとのこと。修学旅行については、一人当たりの参加費は85000円で、全員参加を目指す。センター試験は190名程受験の予定。

そして、募金活動は3年間継続したいので、その間宜しくとのこと。
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OOBは、当分は仕事帰りの一杯をお控えなすってご協力の程をと、拙者からもお願いしたい。

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2011年10月11日火曜日

続2: 竹橋事件

大和魂も精神力も通じぬ近代戦で国土が焦土と化し、無条件降伏を受け入れざるを得なかった我が国が、一歩誤れば世界の地図から「日本」というニ文字がかき消されてしまう危うい危機的状況に陥った。これは、文明開化の明治維新から僅か77年後の事である。この77年間の何時何処で、昭和208月の暑い運命の日に向かって突き進むようになったのであろうか。歴史は複雑怪奇である。が、この肝心な事が拙者の頭の中で整理し得ないもどかしさがあった。これが、江口渙の「少年時代」を読み、多少は解消されたのである。

文明開化の明治維新、これを象徴する五箇条の御誓文の一つ「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の精神。これがいつどのようにして反故にされてしまったのか。「少年時代」の作者江口渙は、明治11年は発生した竹橋事件に端を発しているとみている。


竹橋事件(明治11)は、作者が生まれる9年前のことである。近衛砲兵隊の一部が、西南戦争(明治10)の差別的処遇が引き金となって暴動を起こした事件である。確か田山花袋の回想記だったと思うのだが、この騒動の銃撃戦音を遠くで聞いている。皇居を守備するのが近衛兵。そのお膝元の兵の反乱に、軍の上層部は大きな衝撃を受けた。これを反省し、数年後に軍人勅諭が発案され、軍の厳しい統制が確立されたというのである。曰く「上官の命令は、天皇の命令」と。後年、戦時中においては無謀な作戦と知りながら、上官の命令には逆らえず、多くの皇軍兵士が犠牲となったことは周知のことである。また明治22に発布された帝国憲法では、天皇が軍を統帥することに定められた。竹橋事件以降、昭和の時代を不幸に陥れる小細工が次々と仕組まれていったのである。考えてみれば、先の大戦の指導者の多くは、作者と同じ明治中期生まれである。かれらの精神構造は、保守反動の時代の流れで醸成されていったものに違いない。

政府に統帥権が無いのを良い事に、軍が独善的な (軍事)行動を取り、大陸においては侵略戦争を仕掛け、国内では言論・社会活動を厳しく監視してきた。旧軍の厳しい統制や統帥権の帰属が、この竹橋事件に起因していたとは意外である。今日、一般には忘れられた事件だが、実は戦前の悲劇の歴史の起点となった事件というこのになるのだ。

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もう一つ、同時代の人物による証言を紹介しておく。やはり拙者の疑問に応える内容につき、メモしていたものである。江口渙よりも20歳年上の評論家、内田魯庵(慶応4-昭和4)が、大正10年頃の随筆集「貘の舌」に、明治維新の改革とその後の保守反動の様子を、皮肉をまじえて次のように記しているのである。

  1. 改造の議論は喧しいが、断行の勇気ある者が一人でもあるか。維新の改革者は皆真剣だった。議論するよりは直ぐ実行だ。そのテキパキしたやり口はロシアの過激派ソックリだった。若い伊藤や大隈が牛耳を取って所謂築地の梁山泊は当時の過激派の牙城であった」と、当時の覇気のない政治と対比し、維新の改革の凄まじさを述べている。
  2. 50年前旧弊の冷罵に葬り去った封建の風俗習慣はおろか、思想までイツとなく復活して来た。」この例として、次のように列挙している。「武士が無いのに武士道、古美術の高価な売買、伝統行事。」そして「このまますれば、日本全国が古い風俗習慣や思想や信仰の活きたミイラと化石してしまうのも余り遠くはなかろう。改造どころの沙汰じゃない」と皮肉っているのである。そう言えば、将校の記念写真を見ると、皆誇らしげに軍刀を脇に抱えている。維新の廃刀令が、軍人特権かどうかは知らないが、完全に反故にされ、まるで江戸時代の武士のマネ事ではないか。
  3. こんな何でも無い説でさえ今ではウッカリ云えないのだ。何でも日本を世界一の強い国世界一の人道国、万邦無比の神州と盛んにお国自慢をしないと忽ち非国民扱いされる。まがり間違うとぶんなぐられる」と、大正10年頃、既に戦前の軍国主義的思想が一般社会に浸透していたのである。一方で、その当時世は大正デモクラシーと呼ばれているが、本当だろうかと疑わざるを得ないのである。
  4. 立憲国という有難い国となってからが却って言論が不自由になった。我々売文舌耕の徒は虎の尾を踏むように戦々兢々としてコンな事を書きながらもビックリシャックリだ」とペンを置いている。五箇条の御誓文「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」の精神が、帝国憲法によって完全に反故にされたのである。
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日本丸は、明治維新を迎え文明開化と改革断行に大きく舵を切った。ところが、維新の三傑(西郷、木戸、大久保)が逝った直後に発生した竹橋事件を境に、保守反動側に徐々に舵がきられていった。そして、その舵が修正されることなく巨大な氷山に向かって加速していった。拙者の疑問、「いつから軍国主義が醸成されたのか?」。その一つの回答らしきものが、江口渙の「少年時代」から読み取れたのである。

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2011年10月6日木曜日

続1:金次郎像

「少年時代」の作者(江口渙)の大学生時分、親戚に91歳と随分ご高齢の老婆がいた。彼女が14-15歳の頃に、来村(現在:栃木県烏山市)した二宮尊徳(1787-1856)を直接見ているというのである。どんな立派な御仁かと期待したところ、薄汚い爺様に随分ガッカリしたという回想を、作者は本人から直接聞いている。また周辺の古老の間では、二宮尊徳のよからぬ噂があったらしい。尊徳は農政家として知られている一方で、高利貸の面もあったというのである。作者は、二宮尊徳は偉人どころか一代の「くわせ者」とみているのである。

問題は明治に入ってからである。そんな彼の実像(作者の視点)とは裏腹に、何故に二宮金次郎像が全国の小学校にあるのだろうか。拙者の通った末崎小学校にも金次郎像は、正面玄関(教職員だけが利用)の左側にあった。朝礼の時は、金次郎像と向かい合う位置関係になる。



戦後民主主義教育が国の隅々迄行き渡った当時、金次郎像が何故あるのかは誰も説明してくれない。拙者の祖母以外からは、金次郎の話を聞いたこともなければ、授業で取り上げられる事もなかった。薪を背負い読書する子供の姿は、模範的態度とも思える。金次郎の生きた昔程ではないにしても、当時は子供でも農作業や漁業の貴重な労働力だった。学業と仕事の手伝いの両立は当たり前で、その理想像が金次郎と勝手に思っていたのである。まあ拙者の場合、学業はほったらかしではあったが・・・。

だが作者の見方は違う。尊徳の高弟が書いた伝記「報徳記」を、時の農商務大臣、品川与一郎(在任期間:明治20-25)が読んで感動し、文部省がこれに追随して国定修身の教科書に採用したらしい。これを見て、上には弱く下には強い当時の教育家が出世競争で金次郎像を広めたというのである。しかも、銅像では高価なので、安いコンクリート製のものを大量に生産した。その一つが、我が末小の金次郎像である、おそらく。全国の小学校の校庭に、同時期に一斉に据えられたのではないだろうか。

金次郎像の最大の目的は、「地主のために身を粉にして働く農民、資本家のために命をすりへらして働く労働者を作ることにあった」と作者は述べている。作者らしいマルキスト的解釈ではある。モデルとなった二宮尊徳が偉人かどうは、評価の別れるところであろう。もっとも、歴史的人物の評価は単純ではない。人物の評価は、時代とともにコロコロ変わる。本人の実像は知らないが、金次郎像そのものは、戦後世代の我々には人畜無害であり、また勤勉・勤労の姿勢は学校教育の基本でもあろうから、それほどムキに批判すべきものではないと思うのだが。むしろ、受験戦争で小さい時から塾通いの方が問題である。皿洗いや掃除くらいはさせるべきではないか。むしろ、金次郎を見習えと言いたいのだが。

そこでニューバージョンの金次郎像を提案したい。薪を運びながら、将来ミュージシャンを目指し寸暇を惜しんでギターを引いている金次郎像はどうだろうか。ちょっとアナクロにはなるが、自然エネルギーの見直しで、将来薪も重要な再生エネルギーと見直される可能性もあるので、薪運びとギター弾きの金次郎像。これなら、文句は無かろう!?


追記:
作者の晩年1970年代までは、「資本家」対「労働者」の対立関係で捉えられたものである。だが、今日では「正規労働者」対「非正規労働者」、言わば労働者内に、皮肉であるが階級が発生している。同一労働同一賃金。だが、非正規労働者の差別的待遇を尻目に、正規労働者が既得権益を享受している現実を知ったら、かつて命をかけて闘った労働運動の先人達は、草葉の陰でどう思っているであろうか。

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2011年10月5日水曜日

江口渙:少年時代

江口渙(1887.07.20 (明治20) 1975.01.18(昭和50))の遺作「少年時代」を読み終えた。これが実に面白い。

歴史は門外漢の拙者にとり、明治という時代が、この本程身近に感じさせてくれる書物に出会ったことはなかった。作者は明治20年生まれ。全42章からなる回想録は、1971から書き始められ1974年末に完成。そして、翌年1月に87歳の生涯を終えている。お恥ずかしいながら、拙者遊びボケていた学生時代、その同じ頃、最晩年の4年間「少年時代」との格闘の日々であったようだ。この回想録は、生前の幕末期頃から明治32年の東京府立一中入試に合格するまでとなっている。
 少年時代:全42章の目次

実は最近まで、江口渙という作家を知らなかった。全集が無く、今ではあまり読まれない作家らしい。ネットで何か調べていて、「小林多喜二の死に際しては葬儀委員長をつとめ、それを理由に検挙された」人物としてその名を知ったのである。そこで、代表作位は読んでみようと思い立った。先ずは回想録が面白かろうと、代表作の「わが文学半生記」を、いつも利用している渋谷区の図書館蔵書を検索してみた。ところが蔵書に無い。そこでヒットした数少ない著書を調べ、「少年時代」に目が止まった。総頁数560、読み応えは十分有る。と、そう思い予約したのである。

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拙者が物心ついた小学生の頃、近所・親戚の古老といえば明治20年代生まれだったような気がする。というのは、拙者の祖父母が明治30年代生まれなので、彼らより10年程年上の世代である。だが、彼らから明治の頃の話を聞いた記憶はない。都会から遠く離れた三陸の地は、歴史の教科書に扱われる程の事件が起こりうることは先ず無かった。日清・日露戦争に従軍したという話も聞いたことがない。明治29年に発生した三陸大津波の体験者さえも知らない。個人的には、あの頃でも明治とは遠い昔の時代のように思っていたのだ。

明治20年生まれの作者は、拙者が知る近所・親戚の最古老と同世代ではあるが、歴史の表舞台に近いところで幼少期を過ごしている。父親は、幕末に14歳で会津討伐軍にかり出され、その後東大医学部で森鴎外らと学び、伴に陸軍軍医として出世コースを歩んでいる。東京で生まれた作者は、父親の転勤にともない、幼児・少年期だけでも東京→大阪→熊本→小倉→東京と移り住んでいる。その時々の生活・事件・イベント等を直接見たり聞いたりし事を、恐るべき記憶力と「歴史」を見る鋭い目で、回想しているのである。明治を直接知る人物だけに、「少年時代」は幕末期から明治32年頃までの時代の、正史に隠れた証言記録ともいえる。

彼は「歴史」について、文中でこのように書いている。

「歴史」と対決する場合、裏にかくされている「実像」と表に残される「虚像」とを見分けるだけの正しい科学的な追求と、鋭い直感とを併せ持っていなければ「真実」はわからない。

本書全体を通じこの精神が貫かれ、昔を懐かしむ懐古趣味は無い。歴史の裏に隠された「真実」を鋭くあぶり出しているのだ。そこが出来合いの歴史書とは異なる点であり、それだけに色々発見があって面白い。

本書の内容を一部、日を改めて紹介することにしよう。
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2011年10月1日土曜日

NHK:プルトニウム検出

昨日録画した番組を再生すると、冒頭に直前の番組の最終箇所が収録されていた。NHK BSニュースのヘッドライン(内容)である。「原発から45キロ プルトニウム検出」と驚くべき内容・・・。
 NHK BSニュース・ヘッドライン

→ プルトニウム検出のニュース


やはりと言おうか放射能汚染は尋常ではない。専門家の話では、プルトニウム等の重金属類は爆発しても飛散せず、原発周辺に留まっていると説明していた。またしても彼らはウソをついている。いくら重いといっても微粒子状であれば、水素爆発で噴出し、浮遊している塵や水蒸気に付着し、風で遠くまで飛散するのは当たり前ではないか。このような単純明快なことが、彼らには理解できないと言おうか、いたずらにパニックを煽らないようにするためなのか、都合の悪いことはバレるまで無視する体質が、ここにも現れている。


これまでセシュウムの放出するベーター線強度にばかり注目してきたが、アルファー/ベーター線を放出するプルトニウムやネオジウム等も厳密にチェックする必要がある。が、これらの分析は単純ではないので厄介である。また、プルトニウムに限っては半減期が24千年というのだから尋常ではない。


ガンマー線と異なり質量を伴う放射線なので、内部被曝によるDNAの損傷は、写真で見る限り激烈である。まるで車のフロントガラスに石がぶつかっで出来る紋様のようだ。たとえ微量とはいっても、原子の個数でいったら天文学的な数値には変わりがない。それらが半永久的にアルファー崩壊する訳だから、健康に影響が無いと言われても、やはり不気味である。


本来、天然界には存在していなかったものが、人間の核の利用とともに地球上に出現してきた。極微量とは言われても、一度体内組織に取り込まれたら、DNAの損傷は免れない。いってみれば、遠くから機関銃で乱射されているような状態である。弾丸が人の急所に当たるかどうかは神のみぞ知るである。

いたずらにパニックになるのも良くないが、政府の言うことをまともに信ずるのも危うい。ともかく、放射能の危険性にルーズになってはいけない。そんなことで、参考になりそうなサイトにリンクを設けておいた。
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