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2012年6月24日日曜日

ケセンDNA

昨日、高校の同級生に誘われて、大船渡出身ピアニストHさん主催のチャリテイーコンサートに行ってきた。昨年に続き第二回目である。演奏者は、Hさんとお嬢さんは昨年と同じで、更にチェロの親子デュオのプログラムも組み込まれていた。スタートは、お嬢さんの独奏。昨年は、フランス留学から帰ったばかり?で、ショパンのピアノ協奏曲を演じたが、今回はクープラン、ドビッシー、ラベルとフランス一色。お若いのに技量は確かである。次はチェロの若手女性演奏家。初めて聴くが、難曲にもかかわらず、ピアノ伴奏との息もバッチリ。同じチェリストのお父様とのデュオは、聴き覚えのあるエルガーやシューベルトの曲で、好評であった。

@相模原市橋本 - 杜のホール

主催者のHさんは高校一学年下のピアニスト。お名前だけ当時より知っており、高校の音楽室で何度かお会いしたこともある懐かしいお方である。旦那さんとご一緒に、コンサートを通じ大船渡の震災支援活動を行なっている。

多くの聴衆のなかで、彼女の同級生が4(男女各2)、一学年上の我々が2(男女各1)集まり、コンサート後、この同窓6名だけで、橋本駅ビル内の居酒屋に立ち寄り話に興じる。男性の一人は弁護士である。大学も一緒で、当時コンパで何度か飲んだ縁がありよく知っているが、会うのは20年ぶりか…。大船渡出身の弁護士は超レアであろう。やはり、何年も挑戦し続けたようである。その間、暫くは東京に残り予備校に通い、その後の何年かは田舎で独学したそうである。田舎にいても、家業を手伝い、地元の会合にも参加するなど、必ずしも猛勉強一辺倒ではなかったという。それでも、独学していた時の方が、東京にいて学校に通っている時より、勉強の成果が上がったという。

学校が悪い、先生が悪いと他人のせいにせず、気仙の若い方々には、震災にもめげず、自信をもって精進して頂きたい…。

また、メンバーの一人のお嬢さんは、シンガーソングライター「タマル」で現在活躍中である。拙者は知らなかったが、先日ボクシングで井岡と戦った選手の母親が、1-2学年離れた高校の同窓であるということには驚いた。また、一学年下の同窓には、小説を書かれている方もおられ、最近、その作品が受賞(「狂い能」)している。

拙者の狭い交友範囲の中でも、ケセンDNAは、故郷を離れても結構活躍しているのである…。


PS:
先日は、久々の更新作業。操作画面が変更されており、前回投稿の「原発」関連記事を誤って削除してしまった。バックアップしていないので、再生できないのは残念ではある…。

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2012年6月22日金曜日

末中OB復活アルバムと文集


来月に迫った「還暦祝い」に向けて制作している写真集が完成、別冊の文集も校正が終わり、印刷できる状態になった。


「末中OB復活アルバム」と別冊の「思い出文集」


還暦を翌年(本年)に控え、故郷は震災で被災し、お祝いどころではなくなってしまった。そこで故郷を遠く離れて暮らす我々在京組が、震災後に集まり相談した。そして、先ずは思い出の復活からと、写真集「末中OB復活アルバム」を制作してきたのである。ところが、末小時代(昭和30年代)に仲間と撮った写真がなかなか無いもので、集めるのに苦労した。盛岡方面に出かけた23日の修学旅行の写真さえない。あの頃は、写真を撮る行為は、特別な事のようであった。6歳下の妹には、小学校の仲間と撮った写真が腐るほどあるのに…。

写真集だけでは物足りなく感じ、次には文集の制作も始めることになった。当初は写真集の付け足し程度に思っていたのだが、原稿が徐々に集まり、当方も気合が入りかなりの長文になってしまったことで、写真集を遥かに超える頁数になってしまった。

今年の4月に田舎で最初の打合せがあり、「還暦祝い」が7月に挙行されることに決定した。元々、震災1周年後に被災者と物故者ご遺族に届けようとスタートしたのであるが、予定を変更し「還暦祝い」で写真集と文集を配布することになった。

還暦祝いで撮る写真のスライドショーを作ってくれと言われていたので、試しに「復活アルバム」をビデオ化してみた。初めてのビデオ制作であった割りには、自分で言うのも何だがバッチリうまく行った。好きな曲をBGMに展開していくことで、予想もしなかった効果を生み、写真集と同じ素材を使っていながら、紙媒体とは全く違うものが出来上がったのには正直驚いている。ビデオ制作が病みつきになりそうだ…

この作業の最終段階で問題点が判明した。DVDプレーヤーで読み取り可能な書式でダビングすると、画質がやや劣化するのである。オリジナルは、卒業写真の皆勢揃いの小さな顔でも鮮明に写だしてくれるのだが、DVD版では顔がボヤけてしまう。制作している本人としては、この画像劣化には腹立たしさを覚える。恐らくは著作権保護のことで、そのような措置がとられているように思われる。困ったものだ…。

本来、著作権なんていう物は、印刷技術や録音技術の普及のお陰で、人間が勝手に生み出した権利モドキではないのか。ということは、著作権は技術革新があってのことである。ところが、最近では、著作権が技術革新を阻害する、誠に皮肉な現象が起きている。新技術で著作権が侵されるとホザカないで、むしろ新技術を前向きに取り込んでいく積極果敢な姿勢が求められる…。

写真集から文集も制作するとは、いわゆる「想定外」だったが、写真集のビデオ化もはたまた「想定外」…。暇人だから可能だが、本人結構楽しんで制作していた。唯一心配の種は、編集ソフトの搭載した老いぼれマックパソコン(eMac)がいつ不機嫌になるかだったが、印刷する文集原稿もPDF化しUSBメモリーに保存したのでホッとしている。


ビデオもいずれプライバシーに関らない箇所でも公開できればと考えている。震災前の細浦駅や周辺の町並みの美しい映像が含まれているので…。



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2012年2月24日金曜日

正月過ぎの帰省

20年ぶりに気仙ライナー(高速夜行バス)を利用し、正月過ぎに帰省した。前回は、参列リクライニング席で、移動中は快適な夜を過ごせたのだが、今回は歳のせいか、全くの同じ条件でありながら、座り心地が気になり殆ど眠れなかった。リクライニングにすると、体が座席に対して限りなく並行になり、車の振動で腰部が徐々に滑り落ちてしまうのが気になってしょうがない。腰部の席が、体に対して直角になるように角度を調節できれば、このずり落ちの問題は解消できるのではと思うのだが・・・。


旧4村連合体 - 今また交通弱者に:
JR大船渡線はいつ復旧するかわからず、自家用車の無い拙者には、帰省時の交通手段に当分悩まされそうだ。また、高速バスは、陸前高田でも竹駒寄りで、大船渡は盛サンリア前で、その中間に位置する末崎は素通りされてしまうのもシャクである。その間に、米崎、小友、広田、末崎と四つの町がある。このエリアの人口は2万人弱であろうか、公共交通の弱者に置かれてしまっている。
嵩上げ工事中

昭和2-3年に編集された末崎村史(著者:岩崎浅之助、当時末崎小学校校長)の復刻版が、実家にある。それによると、明治から昭和にかけて、これらの町(当時は村)4村連合の自治が運営され、また村対抗の運動会も開催されていたらしい。商工業の町である高田や盛・大船渡には、当時仲間に入れてもらえなかったようである。言わば、弱者連合だったといえようか。戦後の町村合併で末崎だけは大船渡市に編入された。平成の今日、かつての弱者連合村は、またしてもこのような状況に置かれている。


不便な交通網:
自家用車があれば問題ないのだが、老人世帯で車を利用できない家だってある。拙者の実家だったそうだ。が、昨年、近所にスーパーがオープンし買い物だけは便利になった。JAや仮設の診療所も町の中央にある中学校付近(中央といっても海から離れ、保育園と小中学校しか無かった)に移転してきた。町外に行かない限り、我が家においては以前より便利になったケースもある。問題は、遠くに出かける時だ。例えば上京する時である。一度、盛か高田に移動し、そこで一ノ関もしくは仙台行きの長距離バスに乗り換えなければならない。その便数はそれぞれ日に2便しかない。そして、始発の時間が6-7時とメチャクチャ早かったりする。バス停に近ければよいが、弱者地区にはそれに間に合うローカルバスが無い。一体、何を考えて運行スケジュールを立てているのだろうか。帰京する時に、一ノ関行きのバスを利用したのだが、途中、気仙沼でJRに乗り換えようかと一瞬考えた(4日間東日本JR乗り放題のチケットを入手していたので・・・)。ところが、そこでの待ち合わせ時間が1時間半。待っている間に、バスは一ノ関に到着しているのである。バカバカしい。バス会社は、意図的に接続を悪くし、JRへの客の流出を抑えようとしている魂胆がミエミエである。困ったものだ。JR利用者としては、大船渡線はせめて矢作(気仙地区西端の駅で唯一被災していない)まで来てくれると助かるのだが。
大船渡駅跡


大船渡の商魂:
斯くの如く、気仙ライナーは盛に7am前に到着した。自転車を組み立て、来た道を途中(丸森展勝地)まで戻ることになる。なるべく楽な平坦地をとるので、当然被災エリアを通る。大船渡町に入ると、かつての大通りは嵩上げ工事が行われ、舗道より50-100cm程高くなっている。朝のラッシュで車が多く、狭い車道をまともに走られないので閉口する。大船渡駅舎跡に着いた頃、朝日が昇る。このあたりもすっかり流された。ガレキの道を暫く走ると、仮設の飲食街に出た。商魂逞しい人々の負けん気を感じる。元々大船渡は港町で、飲み屋が多かった。今は、復興関連工事で作業員の出入りが多いのだろう。当然、夜は相当にぎやかになる。兎に角、人は食わなければならない。懐に多少ユトリがあれば、酒や色気も必要だ。
大船渡-仮設屋台村

末崎に到着:
同じ被災地でも、末崎の細浦地区(町の最大集落地)には、そんな気の利いたものはない。ガレキは殆ど片付けられ、ただ荒涼とした平地があった。ただ、ことごとく町が消え失せた陸前高田や気仙町の今泉辺りに比べ、大船渡線の山側や高台には、多くの家々が見えるので、多少はホッとする。町の再建は十分可能だと思う。町内には耕作放棄された田畑が多いので、被災者の高台移転の為の用地はなんとか確保できよう。従来の(部落)コミュニティを維持する上でも、一戸建てよりは、23階の低層集合住宅を建設するのは如何であろうか。土地が節約でき、しかも共同出資により遥かに安い予算で建てられると思うのだが。そして寒冷の地には、冬場は比較的過ごしやすい筈だ。

とそんなことを考えながら実家に到着した。

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2012年1月11日水曜日

伊藤整:ある詩人の肖像

津波で田舎の線路は流され不便になったので、混雑する正月は帰省を断念。その代わり読書三昧で時間を過ごすことにした。そんな訳で、正月休み前にいつも利用している図書館に行き、日本文学全集の書架の前で適当なものを探した。出来れば長編小説がよかろうと、比較的厚みのある書を手にとっては内容を調べた。そして、長編小説が3篇掲載されていた「伊藤整集」を借りることにしたのである。

伊藤整の名はチャタレイ裁判で昔からなんとなく知っていた。そんな訳で、英米文学の翻訳家とばかり、実は長い間思っていたのである。10代の頃は詩人を目指し、後年小説家となったようである。彼の作品を読むのは今回が初めてだ。

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最初の「青春」は興が乗らず前半で断念。次の「ある詩人の肖像」に移った。ところが、俄然これが面白いのである。詩人を目指していた青春時代の自叙伝と言って良い。書かれていることは殆ど事実であろう。しかし、詳細な心理描写は、作品を書いた時点から更に30年も前のことなので、記憶は曖昧になっているはずだ。ということで、自伝ではあっても、心理描写はフィクションと言って良いので、小説とみなされる所以かもしれない。

大正時代、北海道小樽を背景とした、当時の時代風景が手に取るように分かり面白い。また、東京を中心とした当時の文壇の動きが、北辺の小都市の文学青年にも敏感に伝播していた文芸活動にも目を見張るもがある。拙者は、それから40年後(昭和40年代)の三陸の漁村で高校時代を過ごしたのだが、文芸や人脈の点で、北辺のしかも40年前の小樽の方が遥か進んでいたことに驚嘆した。

時は大正10年頃の文壇の様相である。島崎、徳田、田山の時代が過ぎ、谷崎潤一郎や志賀直哉、武者小路実篤の白樺派を筆頭し、室生犀星、芥川龍之介、豊島与志雄、広津和郎、菊池寛、宇野浩二ら、多くは30歳前後の作家が業界を席巻していた。また哲学では西田幾多郎、経済学では河上肇らが活躍していたようだ。ちなみに、大正10年は90歳になった拙者のオヤジの生まれた年でもある。以上の作家は、拙者が高校時代の現代国語に載っていた懐かしい作家群でもあり、当然、図書館や書店には、彼らの著作が多かった。その頃の教育指導者や校長クラスは、大正の息吹を直接体験していた世代でもあり、我々高校生がこれらの作品に多く触れる機会が多かった訳である。が、当時拙者運動に明け暮れ、ブンガクにはあまり関心がなかった。にも拘わらず、彼らの名前だけは一応知っている。先年、書店に入って気づいたのだが、拙者の学生時代(35-40年前)に見かけたそれら作家の作品は店頭から殆ど姿を消していたのには驚いた。せいぜいケントウしているのは、夏目漱石、太宰治、そして宮沢賢治位のものか・・・。

作者(主人公)の1学年上(小樽商高)には、小林多喜二が文芸のリーダーとして活躍し、学校には、日本人を妻とした帰化同然の欧米の先生がいて、ネイティブな英語教育も受けていた。 作者 はまた、小樽のホテルにこもり小説を書いている婦人 (山田順子のこと、当時小樽の某病院長の妻で、後に徳田秋声の愛人として有名に)のことを地元新聞の報道で知り、地位や財産を利用した売名行為に憤り、そして才色兼備の才能に嫉妬している。大正時代の文壇の若きホープであった芥川龍之介と里見惇が来道し講演会を行なっている。 作者 もこれに参加し、芥川の異様にやせ細った晩年の姿をたまたま目撃していたのである。この講演会後まもなく、芥川は自殺している。このように、中央から遥かに離れた地方都市においても、文芸史のウラ話的逸話が、筆者の周りに幾つも転がっていたのである。

日本一の詩人を目指し(妄想)自己啓発に務めながらも、小林多喜二らの文芸グループに属することを心良しとはせず、適当に距離をとっていた。本当に感動した詩をノートに書き写し、筆者の感性が磨かれていった。すると、その選択基準が益々高くなり、安易にはノートされなくなった。彼の厳しい基準をクリアしノートされるのは、殆が無名の詩人ばかりで、いわゆる大家と称される詩人のものは殆ど感動を得るものが無かったという手厳しい評価は面白い。

文芸がそうであるように、技術分野についても同様のことが言える。絶対に安全とお墨付きを与え、50基以上の原発を建設してしまった。それが3.11で、安全神話が崩れ、トンデモない誤りであったことが暴露されてしまった。それ以前にも、不沈戦艦ヤマトしかり、日本の不敗神話しかり。専門家と称する者の言っていることは、必ずしも真実ではないのである。大家だからとか、権威だからとか、国が推奨していることだからと、何の疑いもなく信ずることは実に危うい。教育にしても、教科書の内容だけ教える教育はヤバイ。むしろ、健全な批判精神を養う訓練こそが、本来あるべき教育ではないだろうか。と話は脱線、もとに戻す。

この小説は、詩人としてスタートした筆者の感性が遺憾なく発揮されている。当時の詩作について文中で次のように記している。

「私は現象の形を追求することをせず、何かのイメージが少しずつ形をなして、心の中に育つのを待つようにした。それ故、自分の詩がイメージにおいては空想的で、字句においては平易であるような詩を私は好んで書いた。」

決して難解な語句は使っていない。限られた平易な語句だけで、よくぞこれだけの表現ができるものだと感心せずにはいられない。本人の回想だけに、微妙な心理描写は真に迫ってくるものがある。

小樽商高卒業後、進学を一時断念し、困窮の両親の意思もあり、仕方なしに新設の地元中学校の教師に就く。この時の、校長の教育方針のもとに、成績順にクラス編成を行なっている。成績の優れた生徒にはより高度な教育を、成績の芳しくない生徒には基礎をしっかりと叩きこむということは分からないことはない。しかし、受験を経てある程度以上の学力を持った者が入学してくるのである。誰でもが入ってくる小学校のような、自然発生的な人員構成ではない。そこで更に成績順にクラス分けを行なう教育の目指す物は一体何か。それは、受験しか有り得ない。有名校にどれだけ進学したかが教育者の評価につながる。それが教育の最大目標となっているとすれば愚かなことだ。このバカバカしいことが、当時も、いわゆる「お受験」の今日も、まかり通っているのだ。

実は、拙者が入った高校でも、入学前年まで席順が成績順になっていた。学生服の襟章にはクラスバッチ(AからD)も付けることになっていたので、町の人も生徒の成績程度が分かるようになっていた。だから入学前は、中学生の仲間で評判が悪かった。そのS校長は、拙者が入学した年に他校に赴任していた。が、まだその影響は残り、クラスは入学試験の成績で編成されたが、3年生時には成績順ということはなくなった。入学当時、机には番号が付されていたと記憶している。それが、前年までは厳しい校長の指導のもとに、成績順に並べられていたのかもしれない。

その後 作者 は、念願叶って東京の学校(現在の一橋大学)に進学し、同世代の文学仲間と接触するようになる。特に、梶井基次郎との出会いは、内気で多少アマノジャクの感が無くもない筆者にさえも、大きな感動と喜びを与えている。別の伊藤整集巻末に掲載されていた、 作者 の息子の「父の死」の回想では、病床で梶井基次郎との出会いについて何度も語って聞かせたようである。「ある詩人の肖像」は、十分な文芸活動も果たせず、そして広く世に認められることもなく、不治の病に倒れていった梶井基次郎を後世に伝えるべく書かれたものではないだろうかと、読了後そのように思った次第である。

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明日夜行バスでケセンに帰省することにした。
伊藤整の次に、山本有三の小説も読んだので、その感想は上京後に報告したい。


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