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2011年7月21日木曜日

陸前高田の想い出

陸前高田は山側の迂回路を通る。下方遥かに被災した市街地と広田湾の海が木々の間から見え隠れする。今後どのように復興していくのかは、正直想像がつかない。一昨日購入した佐野眞一の「津波と地震」を読み始めたのだが、明治の大津波と昭和の三陸津波では、陸前高田()は殆ど被害が無かったらしい。これが、一つの油断であったのだろうか。

昭和30年代の街の様子
旧市街地の菅勝書店の筋向いに親戚の家があり、祖母に連れられてよく行ったものである。その家の裏手には水田が広がり、大船渡線を越えた彼方に、高田松原の松林が遠望できた。陸前高田駅は、旧市街地から離れた水田地帯の中にあるのが不思議に思ったものである。当時、被害が少なかったとしても、津波波に対する警戒は一応していたのではないだろうか。山裾に沿って町家集落が形成され、高田松原との間には広大な水田地帯があり、そこには人家は全く無かったと記憶している。この水田地帯が、時を経るごとに新興の商業・行政地区に様変わりしてしまった。

親しいオジ・オバは既に故人となり、家は世代が変わり、ここ何十年も行ったことがない。3.114人家族全員亡くなったようである。高台が近くにありながらである。油断があったのかも知れない。車で避難する際に、交通渋滞に巻き込まれたのだろうか。発展する以前の町のままであれば、高田松原を乗り越える巨大な波しぶきを遠くから確認でき、それからでも高台へ逃れることができたのではないか。そう思っても、今となっては致し方ない。海岸から離れた旧市街地が巨大な波で覆われてしまうなど、誰も想像さえしたことが無い筈だ。

大船渡線の列車から見る、氷上山の麓に広がる市街地の佇まいは、急峻な山が海まで迫った三陸特有の景観とは異なり、どこか優美さがあった。お隣末崎の出身ではあるが、気仙の地に戻ることがあったなら、広々とした温暖なこの町を拠点にしようかとも思ったくらいである。これを実現する前に、津波が街を飲み込んでしまった。

高田の親戚の家に行った帰りには、旧市街地の古い商店街の道を通り抜け、左折して真っ直ぐな駅前通りを駅まで歩いたものである。末中に入学した当時、菅勝書店まで何度か自転車に乗って行ったことがある。将棋の本を立ち読みし、駒の動かし方を覚えたのもこの老舗の書店であった。その後部活が忙しく、足が遠のいてしまった。成人してからは、帰省時の行き帰りに車窓から眺め、高田松原沿いのリップル等の大型店に車で買い物に行く程度で、旧市街地まで足を延ばすことはなかった。一度また歩いてみようかとふと思う時があった。今となってはかなわぬ夢となってしまった。

津波の到達地点に近い気仙川の橋を渡り矢作に入る。ここから暫く長い登りが続く。険しい峠のトンネルを抜けて長い坂道を下ると、被災地とは別世界の北上山地ののどかな山村風景が見えてくる。気仙を離れたことを実感する。


PS:思い出の写真
幼少時の思い出深い一枚の包帯姿の写真がある。全く記憶は無いのだが、勢い余って囲炉裏に掛けてあった鍋に突っ込んで頭に大火傷を負った。高田に住む(母の)叔母が心配し、近所の医院を紹介してくれたらしい。そこに暫く通院し、お陰で火傷の跡はすっかり消えてしまった。この写真はその病院近くで撮ったものかもしれない。昨夜、田舎の母に電話で聞いてみた。「高田医院」とのこと。お世話になった先生は、随分昔に仙台に移られたようだ。この医院のあった周辺も、全て流されたのではないだろうか。
包帯母子
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