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2011年6月30日木曜日

輪行 - 折り畳み自転車

来月2日に末崎に4日程帰省するので、折り畳み自転車を購入した。ドンキに陳列されていた随分小型のもので、値段は13,500円程度と驚く程の安さである。スーパーで売られている格安自転車は、修理サービスはやっていないので、これまで買わない方針であった。ここドンキでは、修理サービスもあることで、買わない理由はなかった。

店からの帰りに乗り具合をチェック。超小型ゆえ、サドルの高さに制限があり、体格の良い男性には小さ過ぎるようである。短足の拙者でも、ペダルまでの脚がややの字になるものの、許容範囲であった。帰ってから、実際折り畳み、輪行バッグに入れてみた。十分余裕がある。これまで乗っていたものよりも軽い。携行に十分耐えられる重さである。

一関から気仙方面へのバスは一日2本、駅前発11:2018:20のみ。後発の到着は夜遅くなるので、先発のバスを利用する予定だ。あるいは、JRで気仙沼まで行く手もあるが、それから先が問題である。陸前高田の瓦礫撤去状況がわからないのだ。旧市街地の平坦な道が通れると良いのだが、そうでなければ、坂道の厳しい氷上山々麓の迂回路になる。気仙沼から矢作に抜ける飯森峠を超えるだけでも、恐らくは拙者にとっては精一杯なので、高田でどうなることやら。やはり、一関からバスが無難なようである。大船渡市役所から、自転車で末崎に入ることになろう。本当は、途中の丸森で降ろしてもらえれば良いのだが。

輪行を目的とした折り畳み自転車は、拙者にとりこれで愛人6目であり、一番安かった。

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2011年6月29日水曜日

捨てる技術

どれを捨てようか思い悩んでいるうちに、部屋は物で溢れ狭くなってしまうものである。しかし最低限、寝床は確保しなければならない。結局、どれか捨てることになる。部屋の物理的なサイズと人の生活上必須の条件(睡眠環境等)で、室内に置く物の優先順位が自ずと決まってくる。布団、TV、パソコン、衣類等々・・・。

決断力に迷いが生じると部屋は要らぬ物で溢れてしまう。同じマンションの友人の部屋はいつ行っても気持ちがいい。整理整頓が行き届いているからである。物を買わないからではない。むしろ買う方である。ただ、気に要らなくなればスパスパ捨ててしまう。実に思いっ切りが良いのだ。そして清潔好きである。

これまで、大量の電気を使っていることに疑問を持たないで来てしまった。知らぬ間に、多くの原発が出来、大量の発電が可能になり、そして一方では、処分方法も未定のまま、言わばジプシー状態で大量の放射性使用済燃料が溜まり続けている。年々増大する電気消費量に対して、警告をあたえることなく、供給側が、将来の問題に目をつむり、発電設備、特に原発の増設に邁進してきた訳である。そして今日、あらゆる生活の場で、電気が使われるようになってしまった。もう元の生活には戻れない、原発は必要だと人は言う。ホントだろうか。

部屋が広ければ広い程、油断しているとゴミの山になってしまう。広い部屋の方が住みよい筈だ。でも、管理が甘かったり、物を捨てる判断がルーズだったりすると、部屋は大量のゴミで埋まってしまう。

これと同じ視点で見れば、湯水のごとく電気が使えるので、ムダな物まで電気を大量に消費することになりかねない。今夏は、節電がクローズアップされている。必要なものとそうでない物を仕分けする丁度良いチャンスではないか。特に、総論賛成各論反対的性格の、事業仕分けの効果もハッキリしない、今日の曖昧社会では、生活様式を転換させるには、物理的な制約があった方が皆より深刻に考えるぶん宜しいのかも。でないと、立派な豪邸が、いつのまにかゴミのお屋敷に化けてしまうかも知れないのだ。いや既に、中和処理も燃焼処理もできない核のゴミで、ゴミ屋敷化が進行しつつあるかも・・・。


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2011年6月28日火曜日

末崎村と伊能大図

今から10数年前のことと思うが、アメリカで伊能大図がほぼ完全な形で発見されたというニュースがあった。伊能忠敬の作成した詳細な日本地図は、幕末・明治の頃に貴重な軍事資料としてあまり公にされず、増刷もされなかったのであろう。その後の関東大震災や戦時の空襲で一部を残し無くなっていたらしい。幸運なことに、この幻の大図が、外国で見つかった訳である。

いつか日本で公開されることを待ち望んでいたところ、それが2004年に実現した。
以下、その時に撮影したものである。

会場の日大文理学部体育館


末崎村周辺

上の地図は、1800年頃の末崎の様子である。右から、細浦、小細浦、門の浜、泊里、碁石の五つの集落が確認できる。船河原付近には集落の記号が見られる。現在は、自動車や水道の普及で結構高い場所にも住宅地が広がっているが、当時は漁業を生業としており、また水の便のよい浜沿いに集落が形成されているのがよくわかる。そして、これら歴史ある地区が今回被災したのである。



気仙周辺

大船渡湾に浮かぶ小さな半島の末崎地区だけでも、5-6箇所の海沿いの集落が被災している。三陸沿岸には更に大きな半島がいくつも存在しており、さらに多くの被災集落が分散している筈だ。大船渡線を流失して末崎は交通アクセスが一気に悪くなったが、もっともっと不便な地区がまだまだ多い。十分な支援の手が届かない地域が沢山あるはずだ。山田町のあるサイトを見ていたら、支援の車やボランティアで町が溢れているとは一体どこの話だろうという嘆きの言葉を見つけた。被災の範囲を考えてみた時、むしろこちらの方が現実ではないだろうかと思わざるを得ないのである。






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2011年6月27日月曜日

歯科治療法 3Mix-MP法

丁度今利用期間の「大人の休日倶楽部」を使い末崎への帰省を考えている。JRパスは4日間有効、7月5日が最終日だ。とすれば、7月2日に出発し5日に帰着する予定がギリギリ最後のチャンスである。今日、歯の治療に行ってきた。次回予約は来月1日と、うまい具合に出発前日に予約がとれた。

隣の診療台には歯の状態をチエックされたばかりの女性の患者さんがおり、今後の治療法について説明されていた。「虫歯は神経に達しており、通常ならば神経を抜いて詰め物をするのが一般的ですが、別の方法もあります・・・云々。」そう、神経を抜かずとも歯を守る可能性が残っているのである。彼女は非常にラッキーだ。たまたま入ったところが、新しい歯科治療を実践されている歯科医院だったのだから。しかし、彼女は未だそう思っていないかも知れない。拙者の場合、ネットで調べ、試しに通院し、そして3人目、即ち現在お世話になっている医院に通っているのである。

この治療法を3Mix-MP法と言う。これを開発し啓蒙に尽力されている宅重先生は、仙台にお住まいの開業医である。3Mix-MP法を知ったのは7-8年程前に放送されたTV番組だった。その後、先生のお書きになった「虫歯はクスリで治る!」を読み、長年歯に悩まされてきた拙者は、これまでの歯科治療に対する疑念(即ち、治療した歯から悪くなる悪循環)が氷解する思いがしたのである。残念ながら、この治療法は未だ一般には普及していないようだ。ネットで関連サイトを探っていくうちに、「一開業医の分際でナマイキな」的な学会・権威の反発・嫉妬がこの普及を妨げているのでは?とつい勘ぐりたくなるのは拙者ばかりであろうか。

今日の原発問題もそうである。これまでその安全性に対し、権威の主張を鵜呑みにし、絶対と信じられていたことが脆くも崩れ去ってしまう。お前素直でないなと批判されても、そうだろうかと常に疑問を感じておく必要がある。3Mix-MP法が新しい治療法だと思い込み、絶対化するのも宜しくない。歯の状態によっては対応できないケースもあり、万能治療法ではない。ひとつのオプショに過ぎないのである。

新しい歯科治療法を紹介したついでにご注意を。真偽の程は知らぬが、集客目当てでホームページでは3Mix-MP法を語り、実はやっていないところが非常に多いらしいとのことである。関連セミナー・正規トレーニングの受講者名簿からの指摘かと思う。再度、ご注意の程!!

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2011年6月26日日曜日

大人の休日倶楽部と大船渡線の廃線危機

JR東日本の「大人の休日倶楽部」について紹介する。


気仙地区を通るローカル線(大船渡線)は今回の津波で駅舎の大半を流失し、盛駅までの全線復旧は難しい。これまで、地元住民は自家用車を利用することが多く、ローカル線を失うことに対する危機感が乏しいような気がしてならない。そこで、観光産業復興のためのローカル線の重要性について認識お新たにしていただきたく、一例として「大人の休日倶楽部」(以下、倶楽部と略す)について紹介する。

この倶楽部は50歳以上であれば会員になれる。各種の特典がある中で、特に年3回実施される乗り放題パスが嬉しい。昨年度まで3日間12.000円パスだったものが、本年度は4日間13,000円となり、またJR北海道と提携したオプションも現れている。倶楽部の会員数は2年前に100万人を突破しており、現在は200万人に迫る勢いではないだろうか。

昨年度は、この期間が突然2回に変更され、ガッカリしたものである。これは、高速1,000円乗り放題のアホな政策によるものと思われる。フェリー会社がこの政策で経営危機に見舞われたことは知られているが、JRの利用客も相当減ったようである。税金で高速道路用者を優遇する。借金財政でそんな余裕はないはずなのに・・・。民主党政権になっても、人気取りでこの不公平措置が継続し、ドライバーの既得権益の様相がしてきた。3.11でやっとこの優遇政策が終わりを告げた。当たり前である。

さて、今年の1月、このパスを利用して帰省した。東京から山形新幹線で新庄に行き、そこから横手、秋田、青森へ、そして更に下北半島まで足を延ばし、3日目に末崎に着いた。下北半島行きの急行は本数が限られるので気がついたのだが、意外とご年配の観光客が目立った。同じJRパスを利用しているに違いない。気のおけない仲間同士、あるいはご夫婦でと、そんな感じである。雪の中、皆どこに行くのかは知らない。拙者は何も無い殺風景な下北駅で降り、丁度目的地が同じ島根からの旅人と割り勘でタクシーに乗り込み、田名部に行った。下北駅までの帰りの道が把握できたので、雪を踏みながら一時間半程歩いて戻った。
下北半島行きの車内@野辺地付近

誰もいない下北駅

青森行きの列車@下北駅

 車内販売を終えて下車する地元漁師さん@陸奥横浜駅

気ままで自由な旅である。電車賃の心配がいらない。観光シーズンではないので、駅前のホテルはどこもガラガラだ。行き当りバッタリの旅を楽しめる。

今、気仙はJRローカル線の廃線の危機にある。これは即ち、最寄りの新幹線駅一関を利用する観光客を失うことである。会員数200万人の富裕潜在顧客を失いかねないのである。

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2011年6月25日土曜日

菊坂と末中修学旅行

本郷菊坂の井戸の件は、いずれ再訪し確認してみることにする。


取るに足らぬことであるのだが、以下は本郷菊坂に強引に結びつけた末中修学旅行の想い出である・・・。



さて上の写真であるが、旅館右の道を下ると、丁度菊坂の登り口付近に合流する。
数年前、仕事で偶然この細い急坂の道を利用した時にオヤッと思った。旅館の角を右折し、玄関を通り過ぎて坂道の反対側のニ階を見上げた。案の定、物干し台があった。間違いない、きっとそうだ。


四十数年前、中3の修学旅行で、この高台の旅館に一泊しているのである。当時の写真や旅程表は残っていないが、決め手は三つ。「文京区」、「眺めのよい高台」、そしてこの「物干し台」である。クラスの誰かが、お世話になった美人バスガイド嬢に住所を聞いていた。メモをチラッと見た時にそれが「文京区」。この旅館と同じ区だと、拙者の脳裏にハッキリとプリントされた。田舎のガキでも、都会の美人にはひと方なる感心があったようだ。

翌朝、学生服の胸にネームプレートを付けた中学生の一団が、旅館の坂道を下っていき、菊坂口近くで待機していた観光バスに乗り込んだ。二重橋前、国会議事堂、東京タワー、鎌倉、箱根へと、修学旅行3日目の強行ツアーが始まった。

バスが発車する時に、本郷菊坂や一葉に関する説明は一切無かったと思う。普通の住宅街であり、団体客がゾロゾロ行くような観光スポットでは無い。ちなみに、彼女の終焉の地もこの近所であるが、今は通りに面した大きなビルが鎮座しよくわからない。本郷台の崖下にその借家があったらしい。崖だけは確認できた。彼女の惜しまれる死から70年後、我々中学生一団が近くをウロウロした訳である。後に、5,000円札の肖像になるなど、思ってもみなかった。

お世話になった、我がクラス担当の「美人」バスガイドお姉さんの写真をいずれアップしたい。(今、手元になし。)40年以上前のことゆえ問題はなかろう。乞うご期待・・・

2011年6月24日金曜日

本郷菊坂

週刊新潮を読んで知ったのだが、文藝春秋に最近掲載された、著名なジャーナリストT氏の記事が問題になっているらしい。ヤッパリ・・・と納得。件の記事を拙者も偶然読んでおり、信じられない気持ちでいたからだ。

記事の概要はこうである。明治25年前後、樋口一葉一家が本郷菊坂に住んでいた訳だが、当時彼女も利用したという井戸が現存している。これを、歴史文化に無理解な地元住民の訴えで、周辺の古い街並みともども取り壊してしまった云々・・・。

実は拙者自身、昨年末にこの井戸を訪ね見てきている。周辺の、今では奇跡とも思える戦前の街並みが現存していたことに深く感心したものである。T氏の記事を読み、僅か半年で一変してしまうものだろうか、特に工事案内も無かったことでもあり、半信半疑であった。
(案内板はないが一葉の井戸と思われる@2010.12.24)


本郷の台地上には広大な東大キャンパスがある。大学に隣接した一画には、理化学・医療器具関連の業者が集積していて、若い時分に取引があった。そんなことで、坂下の地下鉄の駅との往来に菊坂を利用したものである。当時は歴史文化にあまり興味が無かったので、坂道の名前さえ知らなかった。無関心とは恐ろしいものである


(階段を登った所の通りが菊坂@2010.12.24)


東京は台地が多く坂道も意外と厳しい。本郷台もその一つだ。変速無しの自転車では、一度降りなければならない。ところが、本郷菊坂は、斜面を直登するのではなく、右斜めに緩やかなスロープになっている。人力だった当時、本郷台に登る坂道の中で最も大八車フレンドリーな通りとして、低地と台地の往来で栄えたのであろう。自動車一台が通れるくらいの狭い道であるが、今でも古い質屋や戦前の街並みが息づいており、往時を偲ぶことができる。


「親孝行、したい時に親はなし。」繰り返すが、無関心とは恐ろしいものである。
反省・・・。

2011年6月22日水曜日

高校同窓会の震災募金

大船渡高校同窓会より震災募金の案内が届いた。

それによると、
「・・・母校においても家屋を流出したり、家族を亡くしたり、家計収入が半減以上の生徒が全体の四割に上っています。・・・云々」
とあり、あらためてその深刻さにため息をついた。

3.11では、首都圏在住者でも、等しく大地の異様な震動に恐怖し狼狽した。そして、戦後の焦土から築き上げてきた都市政策なりエネルギー政策などの社会システムの危うさをモロに痛感した次第である。

若い人達には、これを契機に、権威とか権力の言をそのまま鵜呑みにせず、より安全・健全な社会システムを創造するよう精進して頂きたいものである。

・・・とそんなことを思っていた時に、同級生から電話があった。振込み詐欺のことを心配してのようである。

消印は最寄りの局である。OB会長は以前甲子園を沸かせた時の監督さんである。専用の振込用紙も同封されている。間違いないはずだ。それでも一応電話してみた。

・・・やはり問題は無かった。明日振り込むことにする。

復活アルバムの制作(2)

我々には、小中学時代のアルバム集が無い。特に小学校の頃は写真を撮ることはほとんど無かった。小6の卒業写真だけは唯一例外で、クラスメートで揃ったもの、23日の修学旅行の時のものは、スナップ写真さえ無い。それが、6歳下の妹たちの場合は、実家に沢山残っている。

少ないながら、皆から集めれば、意外と面白い写真集になるのでは。打ち合わせが終わってから思いついたのだが、文章やイラストを集めてみるのもよい。
我々の小学校時代は昭和30年代である。あの頃を境に生活様式が土着的なものから今風に大転換した時代であり、我々の世代がこの最後の目撃者である。

小学生時分に起きた変化はザッと以下のとおりだ。


  • 項目       1の時→小6の時(東京五輪開催時)
  • テレビ    無し→普及
  • 冷蔵庫    無し→普及
  • 洗濯機    無し(タライ、洗濯板) →普及
  • 照明       裸電球、一部ランプ→蛍光灯
  • 水道       無し(水瓶に水汲み) →普及
  • 炊飯       竈、七輪→プロバンガス、電気釜
  • 暖房       囲炉裏、火鉢→コタツ(炭、練炭から電気式に)
  • (小学校の暖房      薪ストーブ→石炭ストーブ)
  • 車両       馬車あり→馬車消滅、徐々に自動車(三輪車やミゼットから四輪車に)
  • 鉄道       蒸気機関車→ディーゼル機関車
  • バス       ボンネットバス→今風のバス(鼻欠けバスと呼んだ)
  • 新たに追加・・・・
  • 蚊対策  蚊帳蚊取り線香
  • ハエ対策  蠅取器、粘着ロール紙→便所に殺虫剤
  • ハエ対策2  幼児安眠用ネット→無し
  • 小舟(カッコ)  櫓や櫂→船外機  
  等々・・・・・

以上の変化は、6歳下の妹(拙者が中1の時小1)にはおそらく全く記憶が無いだろう。


一方では、廃れてしまった伝統行事もある。特に、子供たちには最大のイベントだった「動く七夕」(この動画は陸前高田町のもの、末崎のはこれと盛町の「あんどん七夕」を折衷した形だった・・・)、忘れもしない小4の夏休み直前の朝礼で、中止宣告させられたことは今でも思い出す。この山車の写真は見たことが無い。神坂部落で後に一夏だけ再興したと聞いて久しい。大正10年生まれの親父に聞いてみたら、子供時分に既にあったらしい。今となっては、マボロシの伝統行事となってしまった。皆の記憶を頼りに、この七夕をイラストで再現してみるのも面白い。

これから集めるアルバム用の素材、許す範囲でここに紹介していきたいものである。
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後記:記憶を頼りに、拙い七夕のイラストを描いてみたので、ここにもアップしておく。
末崎の消えた七夕



2011年6月20日月曜日

復活アルバムの制作

来年の還暦祝いの打ち合わせで動き出した矢先、突然の被災に見舞われた。田舎の仲間は、今日・明日のことが精一杯で、それどころでは無くなってしまった。

30代、40代、50代と、それぞれ節目の年には同級会を催していただき、我々離郷組は世話になるばかりであった。今回は、被災を免れた離郷組が何かせねばということで集まった。

皆から意見を聞いてみた。暫く振りの再会のお喋りが沈黙に変わってしまった。唐突に「具体案は」と問われても、被災の規模が予想を遥かに超えており、当惑するのは当然である。だろうと思い、当方があたためていた企画を述べたところ、あっさり決まってしまった。それは、小中学時代のデジタル写真集の制作である。記念写真等は、レイアウトして印刷も行う予定である。

津波で、思い出の写真さえも失った仲間には、「復活アルバム」として喜んでいただければ幸いである。一応、来年の完成を目指すことにする。


(つづき)

2011年6月18日土曜日

震災後もブログで発信し続ける<鮮魚シタボ ママ日記>に触発されて

3.11の震災後にメールでコンタクトがあった、同じ地区出身で末中の後輩というY君が、拙者を訪ねて来た。6歳下の妹と同級生ということで、拙者のことを知っているらしいが、こちらは全く知らない。勤務時間中のことでもあり、仕事の押し売り?もあり得るなと多少用心したが、全くの杞憂であった。
近所のカフェーで話し込むこと数時間。年代は違っても、高校まで同じコースをたどっており、共通する話題が実に多かった。その後、軽く飲食し、別れたのが11pm頃だった。
そのなかで、末崎のことをブログで発信し続けているY君の同級生が居ることを知った。嫁ぎ先の「シタボ」という屋号を聞いて驚いた。拙者の同級生の経営する鮮魚店であったからである。しかも、今回の津波で被災しているのである。

翌日、検索してみたところ、「末崎町」だけではトップ画面に表示されなかった。「鮮魚店」を追加してみたところ、先頭行に<鮮魚シタボ ママ日記>のブログが確かに表示された。初投稿が2005923日。ブログが何たるかあまり知られていなかった6年も前のことである。それから、コツコツと投稿している。女性らしく、お花とかグルメの写真が多い。中には、拙者にとっても懐かしい土着料理のレシピとか、今では廃れたと思われる田舎の家内行事を今でもやられているとか、貴重な情報を発信している。そしてまた、今では地上から完全に消滅してしまった懐かしい田舎の風景写真も掲載されていた。

3.11を境に、彼女の運命は一変した。店舗・家屋を消失し、ブログの操作を教示?してくれた当時二十歳の愛娘さんをも失ったのである。その後は、町の被災・復興情報、避難所生活等を、携帯電話から気丈にも発信続けておられる。

拙者も田舎の支援復興に多少なり協力できればと、ホームページでの発信を考えていた。しかしながら、手元には十分な素材が揃っていないこと、HP制作用のパソコン環境が古くディスプレイも狭く、かつMacクンの電源が最近怪しく、修理部品も調達できないらしいこと、等々見合わせていたのである。

そんなことで、<鮮魚シタボ ママ日記>に触発され、素材集めも兼ねてブログを始めることにした。