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2011年9月9日金曜日

陸前高田:被災の数値比較

あれから半年、漠然と大きな被害と誰でもが思ってはいるのだが、具体的な数値になると曖昧である。今回の平成大津波と明治三陸津波における、津波犠牲者数が次のサイトで報告されているので、再認識する上でも一部抽出しておきたい。気仙地方の大船渡/陸前高田に隣接する沿岸地域を含め、北から南の順で掲載する。



津波被害者数
                                 平成大津波            明治大津波
                               (犠牲者数/人口)          (1896)
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大槌町       1,450/15,239       900
釜石市       1,180/39,119      8,181
大船渡市        449/40,643       3,143
陸前高田市       2,098/23,164        845
気仙沼市                      1,411/73,154                    1,467
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明治の大津波では、陸前高田市の広田半島の先端、根岬地区では波高32mを記録している。一方、陸前高田付近の湾奥では相当減衰している。例えば、気仙町で3.45m、湾最奥の小友町三日市地区で1.7m。ところが、同じ小友町でも大船渡湾側の只出地区では9.2mと高い

今回は、根岬地区では、8月に掲載の映像でもお分かりのように、せいぜい10m前後である。ところが、湾奥の市内には更に巨大な波が押し寄せている。そして、広田湾側からと大船渡湾側からの波が三日市と只出の中間地点で激突し、巨大な波柱が立ったという。そして、この周辺にあったJR小友駅や駅前集落もすっかり流されている。
二方向からの津波激突地点
(陸前高田市小友町付近)
震災直後、広田半島は孤立した。
JR小友駅舎跡 (三日市/陸前高田方向)
駅を過ぎたあたりが津波の激突地点と思われる。

明治の頃は、堤防などなかった筈で、全く無防備状態といってよい。あるのは、地元民の津波伝承と感に頼る自主警戒しか無かった。チリ地震津波後だと思うが、高田松原の砂浜には、波打ち際の「低い防潮堤」と、その後方100-200mの松林の切れた地点の「高い防潮堤」が建設されている。言わば二重の構えである。万全?と思えた防災対策が施されていたにも拘わらず、陸前高田市に限っては、明治の犠牲者数を遥かに上回っている。
消えた高田松原海岸
震災前の地図と現在の航空写真の比較

末崎は大船渡市内にあるが、陸前高田市に隣接した町である。同じ気仙の地のこの市には親戚縁者が多く、心情的にも関係が深いものがある。拙者の中学の同級生は、陸前高田の高校に進学する者の方が、むしろ多かったくらいだ。大船渡の被害も甚大ではあるが、市庁舎、県立病院、高校などは無傷で、何とか町のインフラを留めている。一方、陸前高田ではそれらさえ全て失っている。しかも、町を象徴する高田松原海岸までもが、今でも信じられないのだが、7万本の松林とともに消失している。大船渡市民であっても、陸前高田の一層悲惨な状況であることを誰もが認識し、深い同情を寄せている。この事実は、上記の比較データからも伺い知ることができよう。

拙者、末崎に帰省する時は、JR大船渡線を利用していた。車窓に陸前高田の町が現れると、故郷に帰ってきたことを実感したものである。そんな訳で、どうしてもこの町に関心が向いてしまう。

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1 件のコメント:

  1. 45号線を北上する途中、9月27日に陸前高田市を通りました。人工物の消失した光景に只あぜんとしました。高田松原海岸が消失していることは知りませんでした。人的被害は大きいものがありますが、人口比で比較すると市民の避難は迅速だったのでしょう。その市民の力が、復興の困難を乗り越えるものであることを信じます。

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