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2011年8月31日水曜日

資源の少ない日本?

「資源の少ない日本」と事あるごとに言われるが、本当であろうか。

大陸から孤立しながらも、水が豊富で森林に覆われた国土、周囲には広大な海洋を有し、再生可能な資源に潜在的に恵まれたこの国が、どこが少資源なものか。草木も生えず水もない不毛の砂漠の地下に大量に眠る石油資源のある国の方が、皆さん資源が豊かと考えているようだ。

「資源の少ない日本」と言っている間は、エネルギー自給の可能性を放棄しているようなものだ。どうも欧米の真似をする傾向が明治の頃から強すぎるせいか、「資源の少ない日本」と国民を煽り、足元の恵まれた自然条件を無視して来た嫌いがある。富国強兵の下での重工業政策を推し進めるには、確かに大量の効率的な化石エネルギーが必要だった。そして戦争になれば、相手を圧倒する兵力・火力がいる。石炭、石油の資源確保は、帝国主義の基本とも言えた。自然エネルギーだけでは近代化は果たせず、戦争にも勝てない。だから、国内の潜在的に豊かな自然エネルギーは、水力発電以外は無視されてきたように思える。

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戦後、戦争を放棄し平和を目指す国になった。膨大な兵力を抱える、エネルギー的に不経済なことをする必要がなくなった。自国の防衛だけでよいのである。確かに、大陸弾道ミサイルの脅威はある。が、これだけは一国だけでは対処のしようがない。だから、国連ないしはアメリカ主導で周辺アジアの国々との連携が国防上欠かせないし、これがアジアの安定維持にもつながる。

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大量生産・大量消費の産業経済は、明治からの「富国強兵」策の流れを汲んでいるようだ。エネルギー問題に直面する今日、開国以前の鎖国自給体制にあった江戸時代の産業にも注目すべきではないだろうか。交通・通信が飛躍的に発達した今の地球は、江戸時代の日本と同サイズの感覚で捉えられる。閉じられて市場・限られた資源、当時の日本と今日の世界は同じ環境におかれている。世界規模での持続可能な経済活動を考える上で、江戸時代の自給自足・地産地消的な経済システムに光をあてる時が来ているように思えてならない。

グローバル経済も宜しいが、地球という閉じられた市場・限られた資源を考えれば、多様性が失われた不安定な単細胞社会が地球規模で出現しそうで、拙者的には不安である。10人いれば、個性・希望に応じそれぞれの職につける多様性のある社会の方が、10人皆サラリーマン化するよりも、健全な社会と言える。国家間についても同様で、国単位で固有の文化や自然条件に適した産業・経済を創出していければ面白い。日本も、特にエネルギー政策は欧米のモノマネばかりしないで、固有の自然条件に適した産業を創出して頂きたいものである。

ヤタラ使われて来た枕詞「資源の少ない日本」が死語となり、近い将来「自然エネルギーの豊かな日本」に代わることを期待したい。自然エネルギーで生み出される余剰電力を輸出するだけでも、国民皆な寝て暮らせる!?だったら、より真剣に取り組むはずなのだが・・・。

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158年前に黒船艦隊ペリーがやってきたように、今日、火星から船団を率いた火星人がやってくれば、開国ならぬ「開地球」も考えられるのではあるが。グローバル経済ならぬ宇宙経済!?の出現か。残暑で頭がチト狂ってきたようなので、ここでやめとこう。

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2011年8月30日火曜日

ザ・タイガース復活?

阪神タイガースの事ではない。グループサウンズ(GS)のザ・タイガースである。週刊文春に、元メンバーで解散以降メデイア取材を一切拒否していた「ピー」こと瞳みのる氏のインタビュー記事が掲載されていた。そして知ったのだが、40年振りに沢田研二のバックバンドとして復活するらしい。事実上、ザ・タイガースの再結成である。

彼らの存在を初めて知ったのは、中3の修学旅行で訪れた三越本店のレコードコーナーである。デビュー版レコード「僕のマリー」だったか。このジャケットを目にした時に、また新たなGSグループが誕生するのかなと思った程度であった。

昭和424月の事である。それより更に40年前と言えば、大戦を飛び越えて昭和2年になってしまうが、どうでも宜しい・・・。当時は数年前のスパイダースの登場以来GSブーム全盛の頃で、テレビの音楽番組もGSで席巻され、それまで主流の演歌や歌謡曲は一時脇役的存在になってしまった。拙者的にも、これら伝統の所謂流行歌にはどこか馴染めないものがあり、新しいサウンドの出現にワクワクしたものである。今日でも、この強烈な印象があるせいか、演歌を聴きたいとも歌いたとも思わないのであるが・・・。

デビュー後まもなくして、人気に火がつき、大御所のスパイダースやブルコメ等の並み居るバンドをぶっちぎりの感があった。テレビで放送されるライブコンサートでは、若い女性達のキャーキャー声と熱狂は凄まじい物があった。どこか虚弱で守ってあげたい雰囲気の「大和撫子」が、此頃を境にして猪突猛進の女、ナデシコ・ジャパンに変質してしまったようだ。

YouTubeで当時の映像を検索してみたが無かった。あるのは、その後収録された懐メロ的番組のものばかりで、生々しいエネルギーが感じられないのは残念である。今の若い世代に、当時の凄まじさを説明しようにも、証拠映像がないのではお話にならない。

今日のライブコンサートの集客力は、球場を満杯にしてしまう程凄まじいものがある。気の利いた小さな町に行っても、一軒はライブハウスがある時代だ。音楽文化が、CDやネットの普及で全国隅々に浸透しているようだ。だがあの頃の異様な熱狂はあるのだろうか。人気バンドのコンサートに出掛けたことはない。が、映像で見る限り、確かに皆スタンディングでリズムに合わせ体を揺らしているようだが、どこかスポーツ応援のように統制されているようにも見える。GSの頃の、アナーキー的とも言える、理性をかなぐり捨てた若い女性達の凄まじい絶叫が、今では懐かしい。

ザ・タイガースの再結成で、60代のオバサマ族はソワソワしているかも知れない。家庭に束縛された?40年の時を取り戻すべく、一夜限りの青春を爆走しそうである。

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2011年8月29日月曜日

私的疫学調査:5%!?

毎度空念仏の如く「ただちに健康影響を及ぼす数値ではない」のフレーズにはいい加減食傷気味になる。それを裏付ける、具体的な調査データを示せと言いたくなるのだが・・・。

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放射線の健康に及ぼす影響がよく分からない。疫学調査データが公開されてはいるが、対象は原子力施設で働いている方々のようである。より影響が甚大と考えられる子供達についてのデータはないものであろうか。例えば、原発施設に近い小学校OBを追跡調査したものである。今回事故った原発が稼動して40年は経過しているので、周辺の学校から何らかの調査データがあっても良いのではないか。(過去に何度か発行された小中学校のOB名簿を丹念に調べるだけでも貴重なデータが得られると思うのだが・・・。) ただ、放射能漏れがなければ、異常は確認できないとは思うが・・・。

兎に角、今回の放射能の自然界への放出量は空前絶後であることには明らか。これから何十年にもわたり疫学調査を行っていく必要があるが、その対象は現在の保育園児や小学生を学年別に分け、卒業後も定期的にフォローしていくべきである。県や市町村がこのような健康調査を行っていれば、何十年後かに不幸にして放射線による健康被害が現れた時、政府・東電に補償を請求する上でも有力な証拠データになろう。年金問題もそうであるが、巨大組織は都合よく担当者をコロコロ替えていく。その対策としても、誰でもが納得し得る分り易い客観データを用意しておく必要がある。

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拙者の田舎の同級生たちは、これまで厄年のたびに前厄祝いを開いてきてくれた。来年に控えた還暦祝いについても、打合せに入ったところで被災し、今はそれどころでなくなってしまった。

我々の幼少時、即ち昭和30年代になるが、気仙の地では公害はなく、海山と環境に恵まれた地域であった。ソ連の核実験が行われるたびに、放射能が含まれているので雨には触れないようにと注意を受けたのもこの頃である。だがこれは実験であり放射能の発生量はフクシマよりは格段に少なく、距離的にも相当離れているので、放射能汚染は無視できよう。

早春の田圃にはジェリー状の蛙の卵が水中に漂い、これがオタマジャクシとなって沢山泳ぎ出し、そして手足が伸びて子蛙に変身していった。初夏の夜、蛍が舞っていた。夏の太陽の稲穂の上を大きなバッタやシオカラトンボが飛んでいた。秋になれば、無数の赤トンボが空高く舞っていたものである。人糞による伝統の有機農法が一般的で、生物多様性が周辺の田畑や野山で観察されたのである。これ以降は高度経済成長期に入り、農薬が使われだし、農業の後継者もなく田畑は住宅地や耕作放棄地になってしまった。そして、当たり前に観察できた生物多様性も過去のものとなってしまったようだ。
裸足の乙女達(撮影日不詳:終戦前後か)
小細浦部落の周回道路で、浜に分岐する辺りと思われる。
2名、人糞桶を担いでいる(ダラ担ぎと呼んだ)。
ここも津波ですっかり流されてしまった。

このような環境で幼少時を過ごした我々が、来年還暦を迎えるのである。拙者の同級生を調査対象にして申し訳ないが、一つの例証として有益かと思うので報告しておくことにする。中学生時分(小学生から9年間一緒)の同級生名簿を見ているのだが、130数名中今日までに残念ながら故人となられた方が12(9、女3)。そのうち今回の震災や(交通)事故が原因のケースが、拙者の知っている限り4名。病没者は、思うに半数の5-6名前後か。とすれば、生まれて60年間で病気が原因で亡くなる比率は約5%となる。他校出身者と比較したことはないが、今日の日本に於いて標準的な数値ではないだろうか。

大量の放射能汚染から50年後の未来に、この数値がどのようになっているか非常に気掛かりである。我々の場合と差異がないことを願うばかりである。

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PS:
拙者の親世代は、男子の健康優良者は招集され戦死する率が異常に高いので、疫学調査には向かない。拙者世代が、高度経済成長期前のピュアな自然環境の下で幼児期を過ごした最後の世代と言える。疫学調査上、本来あるべき数値が期待できる世代ではなかろうか。


但し、囲炉裏、竈、五右衛門風呂で燃やす薪からの煙を、日常の生活で空気と一緒に大量に吸い込む環境ではあったのだが・・・。

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2011年8月28日日曜日

都内に中間貯蔵施設を

最近、新聞はほとんど読まない。揮発性インクが拙者の鼻を刺激し不快になるからである。特にスギ花粉の舞う3-4月が最悪。だから、近頃の情報源はTV、ネット、それと図書館に置かれた月刊誌が中心である。ということで、NHKの番組に言及することが多いので悪しからず。

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昨夜は、将来のエネルギーと題する討論会、前半と後半を視聴した。拙者の嫌いな言葉であるのだが、「資源の少ない日本」との前提で、外貨を稼がなければならないと何方かごもっともらしき発言。その為にも原発の再稼働はやむなしとか。そして、電気が足りなければ、工場は海外移転するとナキが入る。産業界の毎度の駄々っ子ぶりには閉口する。時代を変えようとする気概が全く感じられない。まさに電気に侵された中毒患者である。「外国に行きたければ黙って出て行け」と一喝したくなる。

彼らは、原発の出す迷惑千万な放射性廃棄物のツケを子や孫の世代に負わせて平気のようである。討論会に出てくる前に、奥さんや子供達を集めて家族会議を開いてきてくれと言いたい。そして、その内容を公開して頂きたいものである。恐らくは産業界の立場を代弁する企業人の仮面をつけて参加しているようである。家庭では良きパパを演じていながら、未来の世代に対しては冷酷になる。フクシマの原発被災者の立場を理解することなく、何が本質的に重要かそうでないかをわきまえず、高いとか安いとか取るに足らない論争に陥り、業界の立場から放言している輩が少なく無いようだ。

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かつては無謀な戦争と思わずにアメリカに攻撃を仕掛けた我が国だが、戦争指導者も国民も戦争は遠い大陸か南洋の島々でやるもので、3年後に国土が焦土と化すとは誰も考えていなかった。原発再稼働を要求する輩はこれと同類で、自分のところには放射能汚染は及ばないと安易に考えているようだ。

辞める直前の首相が福島県知事との会談で、唐突に放射性廃棄物中間貯蔵施設の設置を県に要請したらしい。被災者感情を無視と関係者は怒り心頭であるのは当然である。東電の電気を一番消費している東京にこの処分場を設置するのが一番理にかなっているはずなのに・・・。都民が承認し応分のリスクを負う覚悟が無い限り、原発再稼働を議論すべきではない。この前提で討論すれば、昨夜の議論の内容も随分違った筈である。

都内には処分場の適地が無い?国会議事堂前の地下鉄駅構内はどうか。あそこは結構深いので、廃線にして中間貯蔵施設にするのがベストな選択と思うのだが。常に危機意識を共有するためにも、長期保管の必要な危険物は遠隔地ではなく、権力のお膝元に置くのが宜しい。

臭い物に蓋する原発政策は、いい加減辞めようではないか。

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2011年8月27日土曜日

被災地を自然エネルギー発電基地に

再生可能エネルギー(自然エネルギー)に関心が集まっている。原発はとてもじゃないがヤバ過ぎと誰もが認識した今日、早急な転換が迫られている。だが、自然エネルギーと言えば何かと太陽光発電や風力発電が注目され、それ以外は言及されないのが残念でならない。

個人的には、早急な転換という状況を踏まえれば、木質バイオマス発電に期待している。これで全ての電力を賄える訳ではないが、多くの副次効果が期待できるからである。

木質バイオマス発電の原型は、昭和30年代まで全国どの家庭でも使われていた薪・炭火力そのもので、言わば人類誕生から永々と利用されてきた火力源ともいえる。薪を燃やして調理し風呂を沸かし、暖をとってきた。生活様式が変わり、現在それはほぼゼロになったことを考えれば、相当のエネルギー源が利用されずに裏山に捨てられている。放射能や産業廃棄物も出さないし、人類と長い間共生してきたエネルギー源として安心感がある。また、水と陽の光に恵まれた国内には、森林資源は豊富に存在する。日本の自然条件に合致し、しかも伝統的な再生可能エネルギーといえるにもかかわらず、あまり言及されないことが腑に落ちないのである。

国内の木材は戦後安い外材に押され長い間低迷している。 (一方で、熱帯ジャングルやツンドラ地帯の天然林を乱伐し、自然破壊の一翼を担ってきた訳でもあるが・・・。) その結果、国内の林業従事者の減少と高齢化が深刻な問題になっている。森林は人手不足から間伐されず山は荒れ放題である。利益にならなければ人は雇えず、産業は衰退していくのは当然である。しかし、森林のもたらす利益は、水・空気・土壌、そして生物多様性などお金には換算できない多大なものがあり、それが放置されているのは嘆かわしい。

ところが、世界のカネ余りで、日本人が見向きもしなかった国内の森林資源に、外国の投機家連中の手が密かに伸びているらしい。豊かな水源地の山々が、将来投機の対象となる可能性があるのだ。森林を維持しながら適度な利益が得られる仕組みがあれば、国内の林業経営者は代々守ってきや山林を怪しげな外資に手放すこともないはずなのに・・・。

そこで期待したいのが、森林再生を兼ねた自然エネルギーとしての木質バイオマス発電である。間伐材を利用した発電所を全国の山間部に設けることで、エネルギーの地産地消化を目指し、その地域内でお金が回るようにする。地元の森林資源を利用し、地元に電気を供給する。衰退していた山里が再び活況を呈し、若い人材が流入してくれば、山里の人口減少と限界集落問題も多少は緩和されよう。

バイオマス発電の普及は、疲弊した山里だけでなく、3.11の津波被災地(沿岸ではあるが森林も豊富)の産業復興にも有効がある。津波により膨大な瓦礫が発生した。その中には、多くの木材も混じっている。ただ焼却処分するだけでは脳がない。これを利用したバイオマス発電で一気に弾みをつけ、更には津波で流され地盤沈下の著しい広大な平地には太陽光発電パネルを設置する。原発に代わる新たな自然エネルギー発電産業を創出するのはどうであろうか。安定した雇用が得られれば、若者も地元に残ってくれる。そして彼らが被災した町や村を復興し、地域の伝統を守る一翼を担うことになる。とすれば、死者の魂も浮かばれよう。
瓦礫の山(後方は被災した県立高田高校)
(バイオマス発電の可能性)
周辺には森林資源も豊富

陸前高田旧市街地跡
(太陽光発電の可能性)
広大な平地に太陽光パネルを設置するだけなので、
土地を掘り返す必要はない。
市街地跡をそのまま残せるので、
故郷に愛着を持つ被災者の方にも
抵抗が少ないのでは・・・。
太平洋側につき冬でも晴天率は高く、
太陽光発電に適している。
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2011年8月26日金曜日

大艦巨砲技術、将来性ゼロ?

昨夜、NHKスペシャル「どう選ぶ?わたしたちのエネルギー」を途中から見たのだが、審議会の再現ビデオでやっぱりといおうか原子力村のお歴々は自然エネルギーの導入に真っ向から反対していた。そして、国際的には「ちゃんと取り組んでますよ」のポーズとりで、自然エネルギー利用義務付け量を僅か1%で了承したということらしい。審議に加わった政府関係者の脳天気な考えにも唖然とするばかり。これでは殆どゼロではないか。国際的にもCO2削減を目指し自然エネルギーの方向性を模索している時に、どんな連中が審議に加わったのかは知らぬが、国内関係者は原子力一本で、他は全くヤル気がなかったとしか言いようがない。恐らくは、審議メンバーに反原発ないしは脱原発の立場の方々は恣意的に排除されていた可能性がある。その結果、利用義務付け量1%と、人をバカにするのもいい加減にしてくれよと誰でもが思う数値を、専門家と称する輩共によって臆面も無く採用された。恐らくは、良識ある面々も、原子力村の異様とも思える強引な反発に圧倒されたに違いない。

結局のところ、電力市場独占に伴い原発利権があまりにも巨大になり過ぎ、原子力村や周辺の利権享受の輩共は、それを手放すまいとなりふり構わず奔走する。そして、代替発電テクノロジーの萌芽を、そんなのは不安定でダメだとか、原発程の発電量は賄えないとか言って、何かと冷水を浴びせてきた。予算もつけようとしない。ヤラセメールで図らずも発覚したように、世論調査までも意図的に操作してきた。そして膨大な放射能汚染を引き起こしておきながら、どなたも逮捕されていない。あの取るに足らぬライブドア事件のことを考えると、どこかおかしい。結局のところ、関連当局から多くの天下りを長年にわたり受け入れて、政府当局と仲良しこよしの関係を築いていたことが功を奏したとしか思えない。

戦前のこと?と時代錯誤に陥りそうになるが、これが今でも続く日本の変わらぬお国の体質のようだ。国民にハタ迷惑な古い体制を維持しようとする頑迷な輩や時代遅れの大艦巨砲的技術は、早々に表舞台から降りていただきたいものである。

技術革新は、本来テクノロジーをフェアに競わせ、そして世に評価された結果であって欲しい。途方も無い危険を伴う巨大技術であれば、尚更のことである。

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2011年8月25日木曜日

夢想:自転車に乗ったAKB48

「クールデバイスの実力」というテーマで、振動、熱、圧力で発電する素子の開発最前線の新聞記事があった。どこにでも存在する物理変化を何でもかんでも電気に変換してくれる。発電所に頼らずとも発電できるとは面白い。例えば、温度差10℃で約100μWの電気をつくることが可能らしい。どうやって温度差を作るかはさて置き、この素子を1万個設けると1Wになる計算である。素子をどのくらいまで小型・集積化できるのかは知らないが、大出力発電デバイスにならないものだろうか。

そんなことを夢想しつつ、午後私用で青山に出かけた。ファッション地区の裏路地に宅配の自転力車が停めてあったので、シャッターを押す。補助動力機構付き自転車とリヤカーのマッチングしたどこかレトロなこの乗り物、小回りがきいて燃費も良く騒音は出さずと、狭い路地と起伏の多い街には最良の配達車である。
青山で見かけた自転力車

一方、残暑厳しい折り、狭い道を排気ガスを吐き出しながら通行人を押しのけて進む車の多さには閉口する。地球温暖化対策としてのCO2削減はどうなっているものか。震災や原発問題で、この国際公約はスッポリ頭から抜け落ちてしまっているようだ。そんなことをブツブツ思いながら、西日を背に受けて帰宅した。

出かける前に読んだ発電素子の記事を思い出し、自転車に乗っている時のワット数を検索し調べてみた。そこで見つけたのが「自転車探検隊!」サイトである。(今後も何かと参考になりそうなのでリンクを設定。)このサイトによれば、自転車に乗り長時間連続して出せる動力が100Wらしい。ということは、これと同レベルの電気エネルギーを得るには100μWの発電素子が100万個必要になる。これでは、自転車より遥かに大きくなり、残念ながら補助動力源としては搭載できないようである。

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このサイトにはCO2排出の乗り物比較表もあったので、排出量の少ない順に記しておく。

自転車(0)/電車(19)/バス(53)/バイク(93)/航空機(111)/乗用車(175)
但し、()内数値の単位:g-CO2/人・km

自転車ゼロに対し乗用車は最悪。自転車の優位性は圧倒的である。CO2削減を前提とすれば、これからの陸上の乗り物は自転車、電車、バスに決まりだ。だが現状、都会では自転車は邪魔者扱いである。CO2削減と省エネを目指すなら、早く都内全域をカバーする自転車専用道を設けよと言いたくなる。クールビズもいいが、自転車通勤をもっと推奨すべきではないか。

CO2削減と省エネの一大キャンペーンとして、人気タレントAKB48にお願いし、都内の移動に率先して自転車を利用して頂くのはどうであろうか。自転車の利用に弾みがつくと思うのだが。女の子の乗った48台の自転車が青山通りを一斉に動き出すと、その追っかけも同様に自転車で追いかける。これにマスコミのカメラも追随する。街の大通りが自転車で埋め尽くされる。さぞ壮観であろう・・・。
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2011年8月24日水曜日

無言の抑止力

平素は何とも思っていなかったものが、無くなってからその重要性に気づかされることが少なくない。そして、無くなってからでは、手遅れになることも・・・。

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この地に引っ越して30年近くなる。暫く気づかなかったのだが、周辺を散歩していたら、閑静な住宅街の向こうに、どこか異様で巨大な煙突がそびえているのを発見した。見慣れた銭湯のそれよりも倍の高さがあろうか。写真で見た強制収容所の煙突にどこか似ている。何だろうと不思議に思いその施設に近づいてみたら、火葬場だったのである。拙者の住居からはある程度離れており、気にはならなかった。道向こうの桜の木が落葉すると、部屋の窓から煙突の先頭部が見え、時々煙を噴き上げていた。その度に、どなたか存ぜぬが、ご昇天されたのだと心で合掌したものである。

周辺は高いマンションでも4階程度と、比較的低層の住宅街であった。その中に、広大な敷地を有する某大手総合商社の社宅もあった。樹木で囲まれた敷地には、テニスコートがあり、有閑マダムが優雅にゲームに興じるお姿をよく拝見したものである。

このような周辺環境に配慮したのであろうか、近所の古びた斎場が建て替えられ、雅叙園クラスの宴会場かと見紛うほどの豪華な建物に生まれ変わったのである。しかも、死者の魂はどこから昇天するのか知る由もないが、斎場は無煙突式になった。江戸時代からそびえていたはずのこの地を象徴していた煙突が、永遠にその姿を消したのである。

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それから数年後、大手商社の社宅が取り壊され、突如として13階建の巨大分譲マンションの建設計画が持ち上がった。それまで、周辺環境を乱すことなく、大人しくしていた訳であるが、儲かればなりふり構わずと、上場企業とも思えぬ豹変ぶりだった。

当然、周辺住民は騒然とし、街の景観を守れと反対運動を展開したようである。そこは百戦錬磨、かつて航空機取引で世間を湧かせか大企業。その後まもなく住宅街の狭い道に工事用ダンプカーの往来が激しくなり、巨大マンションの完成を見るに至ったのである。近くで傍観し、その手際の良さには程々感心したものである。
 斎場の煙突(今は無し)

後で気づいたのであるが、かつてこの地を象徴していたグロテスクな巨大煙突の存在が、周辺の建物の高さを暗黙のうちに自主規制させていたのである。これを「無言の抑止力」とでも言おうか、一見無駄な存在と思われていた物が、実は重要な役割を果たしていたことを、無くなってから認識した次第。そして、気づいた時には、手遅れだったのである。
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2011年8月23日火曜日

自衛隊の活躍

帰省から戻り、久々に近所の図書館に行く。雑誌を見ていたら、見覚えのある人物の手記が掲載されていた。以前、佐野眞一著の「津波と原発」に触れているが、佐野氏が震災直後に陸前高田を訪問し、会おうとした人物の一人だったのである。綾里出身の民間津波研究者、山下文男氏がその人。

3.11当日、高田病院の四階に入院中で、波に飲まれるところをカーテンに掴まり九死に一生を得ている。寒い一夜を病院スタッフに看護され、翌日自衛隊のヘリコプターで救出される。その後内陸の東和病院に搬送されたようである。見舞いに訪れた佐野氏と再会したのは同病院だった。山下氏は、共産党幹部時代に佐野氏の取材を受け、以来交流があったのであろうか。この面会時の忌憚のない会話の一部が「津波と原発」に載っていた。

「・・・これまで自衛隊は憲法違反だと言い続けてきたが、今度ほど自衛隊を有難いと思ったことはなかった。国として国土防衛隊のような組織が必要だったということがしみじみ分かった。・・・」(同書56)

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自衛隊20万人中、今回の震災救援活動に約半数の10万名が動員されたようである。対象地域は東北太平洋沿岸と広域ながら、震災直後の帰省時(322)に、気仙の地でも多くの隊員、装甲車両、トラック等を多数見かけたものである。

防衛面だけでなく、天災時の災害復興活動、最近では海外PKO活動への参加など、新たな役割も認識されてきた。以前、PKOの要請で自衛隊が戦後初めて海外派遣される事に対し、「侵略」ととらえる一部識者に根強い反発があったように思うが、最近はそのような声は聞こえてこない。そして今回の大災害時に、機敏に対処しうる国内組織は自衛隊以外に存在しないことも明らかとなった。

今回ほど自衛隊の存在を有難いと思った国民は、少なくなかったはずである。独立国家として、防衛を目的とした組織は最低限必要であることは、海外の事例を見れば理解できよう。日本は海で囲まれているので、大陸にあるチベットやモンゴル等と違い、陸からの侵入が無い点でまだラッキーであが、防衛力を全く不要という訳にもにかない。

今後、国際情勢はどうなるかは、よく間違う天気予報より、予測が難しい。適度な防衛力を堅持しておくのは当然である。必要なのは、時代状況に合わせ防衛力を調整していくバランス感覚あるいはフレキシブルな発想である。だが、組織の利権意識の強い日本では、この点が弱いので注意を要する。

防衛力を料理で例えれば、塩・醤油の類か。多ければ塩っぱ過ぎるし、無ければ味がしない。塩・醤油の例えで失礼かも知れないが、自衛隊組織が過去の帝国陸海軍のように過度に強大にならず、かといって全く無くなるという訳ではなく、程々の防衛力を国際情勢に合わせ適度に維持していくことが肝要であろう。

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防衛問題に触れたので、米日同盟についても触れておく。

国内やアジア全般の平和維持を考えれば、現状において米日同盟は必要と、既に洗脳されているのかも知れぬが、それを肯定する者である。そんな訳で、やたらアメリカの揚げ足取り的非難がマスコミに多いのが、拙者には気掛かりである。「反米」となると、論調が賑やかになってくる。確かに、9.11後のアメリカのイラク侵攻作戦は拙かったと思う。あの時のマスコ各社のアメリカの軍事行動を激しく非難して世論を煽り、ミュージシャンを始めとする若者達も反戦運動を展開したものである。

ところが、同時期の一層悲惨な状況にあったと思われるスーダンやソマリアの内戦については、国内のマスコミは殆ど関心を示さず、また若者の反戦平和運動もなかったように思う。このことから見えてくるのは、アメリカが関与する国際情勢は、国内マスコミの非難の対象になりやすく、あまり関与しないものについては無関心ということのようである。アメリカ発のあらゆる文化が浸透している今日でも、アメリカのやることは何でもかんでも潜在的に嫌悪感を持つ「反米」志向の識者が意外に多いように思えてならない。米日同盟がダメなら、独力で防衛かそれとも自衛隊を無くし防衛力を完全にゼロにするのか。いっそお隣の大国中国と組むのか、あるいはロシアなのか。オプションは様々である。

ただ「反米」を煽り立てるだけで無く、将来の方向性も明示してもらいたいものである。そうすれば、沖縄の米軍基地問題の対処も見えてくる。米日同盟を解消し、日本が単独で防衛すべきなのか、あるいはアメリカ以外の国、例えば中国と組むべきなのか。であれば、米軍基地は不要になる。実に単純明快。米軍基地に反対する地元民の、そのあたりの真意を聞いてみたいのであるが、マスコミ報道からは何も伝わってこない。ただ聞こえてくるのは「米軍基地反対」、そして基地さえ無くなれば平和になると。そう願いたいものであるが・・・。
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2011年8月22日月曜日

50年の時

今月、末中在京OBで集まった際に、何名か古い写真を持参してきた。その中で特に目を引いた写真がある。被写体となった人物もそうではあるが、それ以上に背景にその理由があった。50年の時の変化をモロに感じさせてくれるのである。古い写真には、末小の校舎が写っている。懐かしい本校舎(旧校舎と言った)、新校舎、その後方には、建築されて日が浅い講堂が僅かに見えている。これらは皆取り壊されて久しい。現在は、鉄筋校舎 (それでも30年以上は経過し黒ずんだ異様な箱型の変哲もない建物)や体育館に替わっている。当時は、グラウンドの斜面には大きな樹木は皆無であったが、今は鬱蒼とした樹木に囲まれ、わずかに今回の震災でグラウンドに建てられた仮設住宅が見えている。後方の山の斜面も変貌が著しい。当時は、戦時中の乱伐の影響で、松の幼木やススキで覆われていた。今は、大きな松の木に替わり、間伐もされずに伸び放題である。写真左の斜面の畑は、当時すべて耕作されており、冬場は麦の緑の畝で一杯だった。今は耕作放棄地となり、自然樹林に代わっている所も少なくない。

 50年の比較写真(末崎小学校付近)
右は帰省時に同じ地点から撮ったものである。

50年で野山は一変するのは、日本の恵まれた自然条件の賜である。四季を通じ雨や雪とで豊かな水や陽の光に恵まれている。動植物の多様性で土壌も比較的肥沃、植物が育たないところは稀である。外国に目を転ずれば、地下水の枯渇や塩害、そして地球温暖化により砂漠化が進行しているという。これを思えば日本は恵まれている。

一方、同じ50年でも、日本では海外の技術や経済システムのモノマネばかりをしている間に、白砂青松の浜辺を石油コンビナート等の工業用地に埋め立て、食料の半分以上は海外に頼り、エネルギーもほとんと輸入に依存するようになってしまった。今日の円高や原発問題で、経済的に非常に不安定な状況に置かれているのは当然のことかも知れない。安易に肝心なことを他者に依存すればどういう結果をもたらすかは明らか。お人好しの我が国は、50年間これと同じ事をしてきたのである。

今回の危機を反省し、今後50年で肝心の食料やエネルギーをある程度国内で自給できる体制に戻すべき時と思えるのだが・・・。何も変わらずこのまま旧弊に従って行けば、信じたくはないが、その頃世界は食料・エネルギー危機でトンデモない時代になっている可能性が大きい。今からでも遅くはない。国土の豊かな自然条件を生かし、それと共生し得る独自の技術や経済制度を徐々に確立していく必要がある。であれば、拙者この世に存在している可能性は極めて少ないが、日本に限って言えば50年先の未来も明るいと言える。そして、食料・エネルギー危機の人類共通の問題を乗り越える上で、日本が口先だけでなく、真のリーダーシップを発揮できる技術力や実行力を兼ね備えていることを願いたい。

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PS: 古い写真の提供者は、写っている3人兄弟の右端の彼女である。現在はペンネームのような実は本名でもある「松竹幸子」で、半生を書いた本「明るく朽ちる」を上梓している。幼馴染で、サッチとか呼び捨てでサチコと今でも呼んでいるが、9年間で一度も同じクラスになったことがない。何を書かれているかは知らないが、特にいじめた記憶もないので、拙者も一度読んでみるつもりである。

尚、写真の使用は、電話でご本人の許可を得ている。

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2011年8月21日日曜日

広田半島の津波映像


3.11の津波映像を広田町の親戚K氏が克明に撮影していたことを聞いていた。今回帰省して知ったのだが、この映像はNHKで紹介され、YouTubeにもアップロードされていた。


ビデオカメラの位置

撮影者のK氏を訪問した際に、この映像のDVDSerial No.32)を頂くことができた。テレビには経過時間が表示されておらず、また高台避難直前のK氏の吹き込んだ時間1523*に誤りがあるらしい。実際は1528分頃のようである。突然狂いだした高波に一瞬慌て、読み間違えたのであろう。

そこで、頂いたDVDのデータをパソコンで調べ、経過時間を再生してみることにした。

映像ファイルについて

約一時間の映像記録は、以下の4ファイルで構成されていた。

File 1=150.2File 2=151.17File 3=152.25File 4=1259.05

File 1から3の記録時間はそれぞれ15分、File 4だけが13分である。一時中断を含めると、約1時間の記録になる。

幸いにも、K氏が経過時間を以下の通り吹きこんでいたのである。
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  • File 1=2:30:00付近で「1511分」
  • File 1=6:30:00付近で「1515分」
  • File 2=4:20:00付近で「1523分」*(明らかに13分程経過しているので誤り。1528分頃と思われる。)
----高台避難で記録一時中断か----

  • File 3=4:00:00付近で「1544分」
  • File 4=12:00:00付近で「1607分」
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*根岬漁港から8km湾奥の陸前高田市街地が津波で覆われたのは1530前後からのようである。その証拠に、同市立体育館の時計がこの時間で停止していた。波が時速100km前後で進むとすれば、4-5分後には湾奥に到達するので、「1528」は妥当と思われる。
陸前高田市立体育館の時計
1530分で停止


椿島 (2011.8.14 撮影)

上の写真は、ビデオカメラの設置した下を通る道端の駐車場から、椿島方向を撮影したものである。これが通常の海の姿である。


根岬地区は、明治・昭和の大津波の教訓が生かされ、海岸付近には人家はない。また、他の地区と結ぶ幹線道路は、以前は下の浜沿いにあったらしいが、津波後に現在の高巻きの道に変更されている。


K氏は、明治の大津波の到達地点を古老から聞かされており、この道より一段高い安全と思われる地点にカメラを据えたようである。それでも、巨大な波が忽然と出現した時には、更に高台に避難した様子がビデオに記録されている。


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3.11の津波の映像
(陸前高田市広田町根岬地区)




1508分頃の映像
潮位に動きがあり津波の前兆現象である。

1522分の映像
潮位が最大になった時

これより引き波となり、島と島の間がまるで川の急流のように潮が引いていった。

1528分の映像
引き波と共鳴し巨大な波が出現
荒々しい海に豹変する。




1531分45秒の映像
椿島が一瞬巨大な波で隠れる



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1時間のビデオをスライドショーにしたものである。
尚、ファイルNo.と推定時刻を下方に表記


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2011年8月20日土曜日

輪行:中央線四ツ谷駅の利用

輪行で東京を脱出するには長距離列車を利用する。甲州街道沿線住民の拙者、自転車で新宿駅南口に乗り付けることが多い。甲府・松本方面であれば、途中乗り換えなしで直行できる。新幹線を利用する場合は、中央線で東京駅に出る。

今回の帰省では、中央線の朝の通勤ラッシュを回避し、東京駅まで自転車で行くことにした。甲州街道を新宿に向かい、途中で西参道に右折、小田急線を越えた所で左折。千駄ヶ谷駅前を通過し、国立競技場を右に見て絵画館前の銀杏並木を通り、青山通りに抜ける。ここまでは平坦な道を選択してきたのであるが、赤坂からは直進し急な坂道を登る。国会議事堂と建設中の豪華な議員会館群の間を通過する。多額の予算をつぎ込んでの大プロジェクトであろうか。巨額の債務や震災でよくやってくれる、とその無神経さに正直呆れる。一度走り出したら破滅するまで止まらない見本である。いっそフクシマの故郷を追われた避難民に解放すべきではないかと思いつつ、警備が煩そうなので撮影を控え東京駅に向かう。
絵画館前の銀杏並木
朝、東京駅に向かう

新宿から東京までは、通勤電車なら15分、自転車では50分程要した。結局、新宿から乗った場合に比べ、30-40分のタイムロスが生じたようである。新幹線の時間にゆとりがない時には、この差は致命的である。新宿駅は、南口を甲州街道が通過しているので自転車でのアクセスには便利である。だが、雑踏の駅前路上での自転車折り畳み・収納作業、切符購入時の長蛇の列、ホームまでの長い移動距離、そして時間帯によっては通勤ラッシュと、輪行上利用効率の面では閉口する巨大な駅舎でもある。

一昨日上京し、東京駅で中央線快速電車に乗り新宿に向かっている時に、四ツ谷駅で降りてみるのはどうであろうかとふと思い浮かんだ。駅はそれ程大きくはなく、ホームからの移動距離もすくない。新宿までの道は南口駅前陸橋以外平坦で、しかもほぼ一直線である。一度トライしてみる価値はあると思い、武蔵野台地のハズレに位置する高台のこの駅で、自転車バッグを抱え降りることにした。

予想通り、乗降客は少なく移動距離も短い。改札を出て北口方向に左折するとAtreのビルがあり、閉店していて人の往来はまばらである。そして明るい作業スペースがすぐに見つかった。人に追い立てられることもなく、明るい環境で自転車のセッティングができるのは有難い。前篭を取り付け、重い荷物はこの中に積み替え、背負う負荷はできるだけ小さくする。この作業は10分程度で済んだ。
 四ツ谷駅で自転車のセッティン
夜でも明るく人通りが少ない

新宿駅南口を目指し、甲州街道を進む。新宿御苑沿いの道を進み、山手線を跨ぐ陸橋を登り20分程度で到着。四谷・新宿間の電車の所要時間を5分とすれば、15分のタイムロスである。だが、駅舎の利用のしやすさ、自転車セッティングの環境を考えれば、四ツ谷駅は今後も利用できそうである。

後はいつもの通り、見慣れた甲州街道のビル街に沿って更に20分程汗する。

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2011年8月19日金曜日

輪行:被災地帰省

811日から18日まで帰省していた。夜は涼しくよく眠れ、畑で採れたての無農薬野菜や海の幸を食し実に健康的。深夜型の体内時計が、涼しい早朝と夕方の農作業のお手伝いで、自然に矯正される。体内に貯まった都会の毒素がすっかり排出された気のする、再生の一週間であった。

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先月の一時帰省では、一ノ関駅まで新幹線で行き、そこで大船渡・盛行きのバス(所要時間:2時間)に乗り換えたのだが、今回は、お盆帰省ラッシュを考慮し、比較的空いていそうなMaxやまびこで先ず仙台に行き、そこから盛行きのバス(所要時間:4時間)に乗り換えることにした。
 仙台から大船渡行きバスの混雑した車内
(トンネル通過中)

仙台までは予想通りスムーズに行けた。だが、仙台始発のバスは専用トランクが利用できるだろうと甘く考えていたのが失敗だった。一ノ関からのバス同様、専用トランクがオンボロで開かないのだ。しかも前席とのスペースが20cm程短く狭苦しい。バスを待つ列に、ボランティア活動で大船渡に行くというカナダ人女性も大小3つの手荷物を抱えていた。左手に拙者の自転車を右手に彼女の一番重い荷物を持ち、満員の客室の通路後方に押し込むことになる。座席は補助席を含め完全に満席で、通路も手荷物で一杯。狭く暑苦しい4時間のドライブであった。乗客の20%程度は高田で降りやや空席ができたので、二列前の席に座るカナダ人女性とやっと話すことができ、出身、目的地等が分かった次第である。以前、英語指導者として奈良に滞在経験があり、日本語は話せないながらも、一人遥々大船渡に行くらしい。

乗客の多くが盛サンリア前で降り、我々も大きな手荷物を引きずりながら後に続く。彼女の迎えは無いという。行く場所を示した地図を見せてもらう。盛商店街の旧道に沿った所にそのボランティア事務所があるようだ。歩いて4-5分程度なので、自転車の組み立てを終えるのを待って頂き、案内することにする。
カナダからのボランティアスタッフ(C嬢)
盛サンリア前にて(2011.8.11撮影)
ご本人了承の上撮影および掲載

旧道を左折すると目的地がすぐ分かった。彼女の同僚らしき女性達が浴衣姿で事務所前の路上で夕涼んでいるのでよく目立つ。7日に催された盛町の七夕夏祭の直後だけに、その余韻が続いていたのであろう。地元の浴衣姿の若い女性達も出入りしており、まさに国際交流の場の趣である。怪しげなオヤジの存在は異様であり、長居は禁物。KYサンにならぬうちに、早々彼女に荷物を引渡し、サヨナラを言って末崎に向かう。


地ノ森を越え埋立地付近に来ると、左手に太平洋セメント工場が見えてくる。その手前には、昨年操業開始後まもなくして被災したという阿部長商店大船渡工場を見つけた。気仙沼を拠点とする同社だが、輸出港として期待する大船渡に進出したばかりでの大損失。NHKの放送で知ったのだが、工場建屋は致命的な損傷を免れ再開が可能らしい。同社の気仙沼や石巻の工場も同様の損傷を受けているようだが、大船渡工場が希望の光として再興することを期待してやまない。
阿部長商店大船渡工場遠望

破壊されたまま放置された廃墟のビル街を抜け、魚市場を左に見ながら沿岸の旧道を下船渡に向かう。途中、冠水がひどく通行できない。大船渡線に退避し、更に上を通るバイパスに逃れる。
下船渡の冠水地点

下船渡の住宅地には同級生家族が避難している。ちょうど帰宅する時刻でもあったので立ち寄ってみると、まもなくご本人が帰宅してきた。バスが混んで食べられなかった寿司弁当をつまみながら、名簿確認と復活アルバム案内の草稿に不備がないかチェックしてもらう。被災から半年の来月にはDMを実施したい旨説明する。

実家に向かった頃には辺りはすっかり暗くなっていた。かつては家屋や商店が密集していた細浦地区の今は誰もいない平地の闇の中を、一人自転車を漕ぎ続けた。


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昨日上京。

朝から雨模様。早めに昼食を摂り、雨が止んだタイミングで家を出たのが1150am。盛サンリア前からの一ノ関行きバスは1:31pm。時間的ゆとりは十分である。
  • 細浦地区の峯岸で丁度1200am
  • 船河原から丸森の急坂を越えて大船渡小学校下には0:25pm
  • 盛サンリア前バス停は0:45pm

末崎の実家から55分要したことになる。

到着してから雨は本降りになってきた。サンリア入り口付近の雨の当たらない場所で自転車を折り畳み、専用バッグに収納する。バスの時刻まで30分ほど余裕があった。

バスは6-7割程度の込み具合で、自転車は横の座席に置くことができた。前の座席とゆとりがあり足を伸ばせるのが有難い。仙台便の狭いバスはもうコリゴリである。

一ノ関駅の待合室でラーメンを食べていると、盛から同じバスでやってきた外国の若者が休憩の席を探しにやってきた。隣の空いた席を勧める。やはりボランティアの青年で、四週間滞在していたらしい。仙台からのバスで知り合ったカナダ人女性の話をしたところ、沢山仲間がいたので誰だか分からないという。そこで、携帯で撮った写真を見せたところご存知であった。この青年、ニューヨークのブロンクス出身で、現在は西海岸に住んでいるらしい。21歳ということで驚いた。当方、30歳代と思っていたのだ。大学の夏休みを利用しボランティア活動に来たのであろう。最初はお腹一杯だと行っていたのだが、拙者の食べているラーメンに興味を持ったらしい。そこで一杯注文する。下の写真がそのラーメンをすすっている写真である。
ラーメンをすするDavid君
一ノ関駅にて
(2011.8.18撮影)
ご本人了承の上撮影および掲載

彼のカメラを借りて、そのユーモラスな姿を写真に収める。彼の撮影した動画を見せてもらう。七夕夏祭りの子供達の踊るあどけない姿に興味を持たれたようである。ボランティア活動を通じ、日本の文化の一端に触れたことも有意義であろう。話に夢中になっていると、拙者の電車の到着まで3分しかないことに気がついた。自己紹介する暇もなく慌ただしく握手をして別れ、自転車バッグのベルトを首に引っ掛けて、新幹線乗り場に急いだ。
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2011年8月11日木曜日

巨大なお堀

本日、パソコンの無い田舎に帰省するので、一週間程ブログの更新は無い。

不在中に8.15の日が来る。終戦記念日であるが、実際は敗戦の日でもある。戦乱に巻き込まれたアジアの民にとっては解放記念日とも言える。当時の国の立場により、呼称は様々である。我が国においては敗戦を記念する訳にもいかず、無難なところで「終戦記念日」に落ち着いたのであろう。

拙者が上京した当時、杉田二郎の「戦争を知らない子供たち」が街角から流れてきた。1945.8.15以降軍隊は解体され、若者は兵役で招集されることも無くなった。拙者世代は、日清・日露の頃よりの続いてきた臨戦状態から解放され、平和な時代に生まれた。杉田二郎の高らかに歌った、戦争を知らない世代である。

四方海に囲まれた日本は、言わば天然の要塞である。この安全を保証してくれる巨大なお堀の外にノコノコ出かけ大陸に進出したのでは、それに反感を抱く大陸の人々に常に包囲され、大きな犠牲を払うのは当然かも知れない。北の大国ロシアの脅威もあったであろうが、危険を冒してでも推し進めようとする最大の動機、いわゆるモチベーションは、結局のところ利権やお金であろう。欧米の帝国主義を真似るかのように、権益を拡大し、そして戦争という破壊行為に伴い、それがバブルの如く膨張し、最後に破裂したように思えてならない。

戦争は知らないが、70年代のオイルショック、1990年のバブル崩壊、そして3.11のフクシマ等は、戦争行為程の影響は無いにしても、共通するものを感ずる。どこか危ういと感じていながら、大きな渦に巻き込まれていく。個々の意見が通らぬ、それは、国が推し進める政策だからと。マスコミもまた煽りまくる。そして、世は一点に向かい加速し、暴走し、そして破裂する。

戦後世代にとり、8.15は「旧弊からの解放の日」と言える。軍は解体され、農地は解放され、財閥は解体され、貴族特権は無くなり、男女同権と選挙権が与えられ、言論弾圧も一応は無くなり、等々・・・・。いま当たり前のことが、66年前のこの日を境に、占領軍の指導の下、短期間で推し進められた。それまでの根強くあった身分階級も、既得権益も、改革の反対勢力も、”So what?”と彼らには通じない。終戦から10年後、拙者が物心ついた時には、既に今日のような社会になっていた。

いろいろご意見はあろうが、気仙の半農半漁民の出の拙者、個人的には、8.15以降のGHQの指導・対応に対しサンキュー・ベリマッチと感謝したい。兎に角、個人的には何の恨みもない他国の同世代の若者達と、上官の命令に従い、銃で撃ち合うことがない世の中になっただけでも幸運である。

平和ボケしている間に、大国同士が大陸間弾道ミサイルで互いに標準を合わせ対峙している。そして更にはテロとの戦いも。最近の国際情勢は、まるで雲の如く捉え切れない・・・。

航空技術が発達した今日でも、国土を守る巨大なお堀の存在は有難い。

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2011年8月10日水曜日

輪行記録:1994年夏(2)

引き続き、1994年夏の輪行記録をアップする。

輪行日: 1994.8.27

新宿発8:30pm、上越線浦佐駅下車11:40pm、駅前ベンチで仮眠

浦佐Start(4:20am)→小出(5:00am)→枝折峠(9:00am)→銀山平(9:30am)
      県境(0:30pm)→御池(3:30pm)→檜枝岐(4:30pm)→只見駅Goal(7:00pm)

尾瀬は何度も歩いている。周辺のハイキングマップを見ると、新潟口は湖を船に乗って銀山平に着き、そこから歩いて三条の滝を見ながら尾瀬ヶ原に登ってくるようである。山で船に乗るということに惹かれ、どんなところを通りやって来るのか興味があった。これが、今回のコース設定の決め手である。周辺の著名な山々の登山口もチェックでき、皆ここから登るのだと知っておくのも面白かろう。
 ルート: 浦佐→銀山平→檜枝岐→只見駅

小出の町を抜けると周辺の家々の一階部分が高くなっている。冬は豪雪地帯であることを思わせる。未だ登ってことがない越後駒ヶ岳を右にみながら、枝折峠への道を登る。一部通行止めの箇所があるらしく、車は全く通らない。自転車を漕ぐ度に、折り畳み部のクランプからギーコギーコと音がする。当時の折り畳み機構は、今日に比べ未熟だったようである。枝折峠では越後駒ヶ岳の登り口を確認。峠を下り始めると道路工事箇所があったが作業者はだれも居らず、問題なく通過できた。

ダム湖畔の銀山平からの道は、奥只見湖に落ち込む急斜面に切り開かれており、カーブや登り下りの連続。しかも強烈な日差しの下で、奥只見湖奥岸に達した頃には、体力の消耗が激しかった。そこから続く昼の炎天下の御池までの長い登りは、自転車を引いて歩いていることの方が多かった。登山と同様、休まず歩いていればいずれ峠に達する。途中、平標山、尾瀬ヶ原、燧ヶ岳の登山口を確認する。

予定時間を遥かにオーバーしたので、御池からの長い下り坂は殆ど休まずペダルを漕ぎ続ける。途中、昔の趣のある檜枝岐村の集落を一瞥するだけで通過してしまったのは残念である。会津駒ヶ岳の登り口も確認。

途中夕立に遭うが、ずぶ濡れになりながら先を急ぐ。むしろ、汗が流れて爽快である。これだから、夏のサイクリングは楽しい。只見湖に着く頃には濡れた衣服は乾いていた。駅前で自転車を収納し、小出行きの最終列車に何とか間に合った。


輪行日:1994.9.3

新宿前夜発、松本駅で松本電鉄に乗り換え新島々駅に

新島々駅Start(4:30am) →奈川村(9:00am)→野麦峠(10:30am)→分岐点(11:30am)
        →長峰峠(0:30pm)→御嶽神社(2:00pm)→上松駅Goal(3:30pm)

新島々と言えば北アルプス玄関口の一つである。電車を降りた登山者は、ここでバスに乗り換え上高地に向かう。拙者は自転車を組み立、静かになった駅舎を後にする。途中まで同じ道を通り、殆どの車は右折し梓川を渡って行くのだが、拙者はそのまま直進し、女工哀史で知られる野麦峠(標高1622m)への道を一人静かに辿る。
 ルート: 新島々→野麦峠→長峰峠→御嶽神社→上松

古い街道沿いの家並みは、時間が止まった趣で、往時をしのばせてくれる。車の往来は少ない。途中、公開している古民家があり中を見学した。ここで回想するのは当然、正月に飛騨側に帰省する十代の乙女達の姿である。峠は標高が高く冬は厳しそうだ。製紙工場のある岡谷から、何日かけてこの難所を越えていったのであろうか。思いは尽きない。

峠への勾配が一層きつくなる地点に旧道の分岐点があり、車道を離れこちらを登る。完全に山道である。自転車を引いて登る。登り切るとそこが峠で、車道も合流する。乗鞍岳がよく見える。

下りは野麦の集落を過ぎると、旧道と新道に別れていた。最初、新道をとるが勾配が厳しいので、沢筋の旧道に変更する。結局合流するのであるが、旧道は狭いが、山を高巻いてはおらず、緩やかな下りが続き、走りやすい。

ダム湖近くの分岐点に至る。右折すれば高山方面。だが、ここを左折し木曽谷方向に道をとる。長峰峠を越えると、御嶽神社まで豪快な下りが続く。木曽福島に出た所で、国道を妻籠方面に向かうことにする。ところが、峡谷の幹線道路は大型車両の通行で忙しなく、のんびり自転車に乗っていられない。適当な抜け道を探そうにも、右手に木曽川が迫り、無いのである。上松に着いたところで断念。木曽の風情を感じさせてくれる古い町並を散策。そして塩尻・松本行きの列車に乗り帰路につく。

幹線道路のサイクリングはコリゴリである。やはり、静かな旧街道や山里の道をのんびり辿りたい。

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2011年8月9日火曜日

輪行記録:1994年夏(1)

今週帰省するので、その前に過去の輪行記録を幾つかアップしておく。

輪行自転車1号のTRAVEZONEについては以前報告している。次の2号機については未だである。というのは、写真がどうしても見つからなかったのだ。それが、昨日やって出てきた。この自転車での輪行のことはよく覚えているのだが、その車体の色や形を、写真を見るまですっかり忘れていた。1号機はタイヤが細く華奢だったので、タイヤが太く林道も問題なく走れそうなものに買い替えたのが1994年。デザイン的には今日のフォールディングバイクと変わらない。だが、変速機が付いていないのである。
輪行自転車2号: 変速機無し!!

取り敢えず試験走行として、中央線を利用し塩山まで行き、大菩薩嶺と奥秩父山稜に挟まれた柳沢峠(標高1472m)の山越えに挑戦した。

輪行日:1994.8.13

中央線塩山駅Start→柳沢峠→丹波山村→多摩湖→多摩湖駅Goal

変速機無しでも意外と登れたのだが、問題は下りである。最も気持ちよく走行できる丹波山村付近の緩い下り坂で、ペダルが空回りし、全然スピードが出ないのだ。ギヤ比が登り用に設定されていたようで、やはり変速機が無いのは辛い。かといって、この種の自転車は、当時タウン走行を想定しており、変速機付でないのが普通であった。タイヤは、マウンテンバイク程太くはないが、ママジャリよりはしっかりしており、ダートの道でも問題なく走れそうである。

欠点はあるものの、何とか行けそうなので、次に選んだのは山岳ルートであった。

輪行日:1994.8.20

新宿前夜発の列車で甲府駅下車、駅前ベンチで野宿

甲府Start(4am) →芦安村→夜叉神トンネル→広河原→奈良田温泉→波高島駅Goal(4:30pm)

学生時代に北岳登った1970年代のイメージで出かけたのだが、驚いたことに随分勝手が違っていた。最終電車が通過すると、人は追い出され、駅のシャッターが下ろされてしまうのである。昔なら、真夜中でも駅の待合室には夜行列車を待つ旅人がおり、追い出されることはなかった。駅近くには深夜営業の怪しげな映画館もあり、ここでも仮眠することができた。夏は、早朝発の登山バスを待つ登山者で賑わっていたものである。これらは全て過去のものとなっていたようだ。パラパラ降りた登山者はタクシーに相乗りでどこかに行ってしまい、拙者一人が取り残された。駅前ベンチに横になり夜明けを待つものの、駅前サークルに侵入してくる暴走バイクの騒音に悩まされ、殆ど眠れずの状態であった。

今日の登山者は、駅から登山口までのルートには全く無関心である。交通機関の発達していなかった時代の先人達は、平地を歩き、前衛峰を越え、深い谷を渡り、そして南アルプスの主峰にたどり着いた。この日のルートは、かつてのアルピニスト達が歩いた道とも一部オーバーラップするのである。
ルート: 甲府→広河原→身延

甲府を早朝に出て平坦な道を暫く走り、芦安村には930amに到着。村外れの突き出た岩の下を通過。険しい山岳地帯に入ったことを感じさせてくれる。長いつづら折りの坂を登ると、夜叉神トンネルである。この長いトンネルを後方から駆け抜けて行く車に注意しながら何とか通過すると、アルプスの山々と深い谷が眼前に広がってくる。日本第二位の高峰・北岳の登山口である広河原までは、自動車は頻繁に通過していく。

広河原を過ぎると車は全く通らなくなる。トンネルを幾つかくぐり抜ける。その最初のトンネルは結構長く、照明の無い暗闇の中で方向感覚を失い、時々フラフラして側壁にぶつかりそうになる。出口の光が小さく見えた時にはホッとしたものである。次も同じようなトンネルであるが、行けども行けども出口の光が見えてこないのである。暫く進むと左にカーブがかかり、急に光が差して、まもなく外に出られた。出口直前で大きく曲がっていたのである。実に意地悪な作りのトンネルである。この最初の二つのトンネルが鬼門であろうか。それ以外は殆ど覚えていないので、比較的楽に通れたようである。

まもなく奈良田温泉に到着。ここで確か、この集落の戦後まもなくの頃に撮られた写真を見たのである。どの家の屋根も、杉皮で覆い石の重しを乗せた貧弱なものであった。周辺の山々は高く深く、戦前までは秘境の集落だったのかもしれない。自動車の通れる広い道がこの集落に来るまでに、相当の年月がかかったのではないだろうか。外界を結ぶ、今は舗装された道を下る。変速機無しの自転車につきペダルは空回りするだけで、スピードは一向に出ない。

冨士川を超えた波高島駅に到着。列車の時間を調べ、近くで適当な河原を探す。夏のサイクリングの最後に行う恒例の行水である。清らかな川の水に浸り汗を流す。すっかり着替えてから、自転車を収納し、甲府行きの列車に乗る。

兎に角、広河原を過ぎてからのトンネル通過が、最も強烈な印象の残るルートである。
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