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2011年8月5日金曜日

末崎の消えた七夕

陸前高田では、恒例の「うごく七夕」を今週末に開催するらしい。

一度は茫然自失の状態だったが、瓦礫の中から七夕の山車が見つかり、誇り高い町民の本能が刺激されたようだ。街や多くの人命を失ったが、歴史ある伝統は顕在であることを示し、復興の灯火として成功されることを願わずにはいられない。
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以前にも書いているが、我が末崎町でもかつては同様の七夕を、小中学生が中心となり毎年催していた。ところが、拙者小4の夏休み直前の朝礼で、突然中止を言い渡されたのである。子供達が集金して回るのは教育上宜しくないとの、PTAからのお達しらしい。小中学校には地元出身の教職員も少なく、町の伝統行事に対する理解も足らなかったであろう。他の父兄からも特に反対はなく、すんなり中止と決まったようである。その後は特に復活の動きもなく、かつての子供達の盛大な伝統行事が、今では記憶からも消えようとしている。

言葉で説明しても歯痒いので、拙いながら遠い過去の記憶を頼りにイラストにしてみた。
 末崎の消えた七夕
高田の「うごく七夕」と盛の「行灯七夕」を
折衷した格好の飾り付けだったと
今にして思うのだが。

当時はまだ馬車引きがいた。そこから借りてきた馬車の上に矢倉を組み、周囲には紙を貼り、時代劇の主人公のキャラクターを描いた。中野の同級生に聞いたところ、同部落には筆の達者な人がいてネブタの絵を書いていたらしい。いつもは腕白の男童(おとこ・わらし)供が、和紙で花飾りやコヨリを作り、噴霧器で赤・黄・青と着色する。拙者、未だ低学年で見るだけであったが、先輩達の手先の器用さに感心したものである。女達は誰も手伝いには来ない。完全に男子だけの世界である。公民館の床一杯に作り置かれた花飾類は、矢倉の上や周囲に飾り付けられ、当日を迎えるのである。

七夕の初日は、地元の部落を離れて、町の中央部の平と小田の境あたりまで引っ張り回し、そこから引き返して細浦港周辺に向かう。ここには、各地区の山車が集結し、笛・太鼓の囃子で、七夕の豪華さを互いに競ったものである。船河原、峯岸、内田、細浦、中野、神坂、小細浦と7部落が参加し、戸数の少ない船河原の山車は、馬車ではなくリヤカーの小振りな飾り付けだったと記憶している。

翌日は部落内を一周し、その際に会計係が各戸を挨拶しながら集金して歩くのである。これが、一部の父兄には不評だったのであろうか。これだけの規模の行事を催せば、馬車借りのお礼、紙・インク・のりなどの材料費、等々無料では済まない。子供達の自主的な活動を潰したのは、無理解な一部の大人達だったのではと思っている。

先月帰省した際に、泊里の同級生と七夕の思い出につい話した。同様の七夕祭は泊里地区にもあり、しかも遥々細浦まで山車を引いていったらしい(中井、小山、神坂の3つの峠越え、しかも砂利道である・・・。)これは意外な証言である。とすれば、もっと多くの山車が集結していたのかも知れない。

末崎の七夕の詳細を知る最後の世代は、60歳代半ばの方々であろうか。いつか再現される日があることを期待したい。
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