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死亡者・行方不明者=61名 (大船渡市全体では459名)
被災戸数=734戸(43.5%)
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町内であれば短時間で高台に避難できる。尋常な揺れではない、そして昼間のことでもあり、犠牲者は少ないだろうと思っていた。にもかかわらずこの数値、正直意外である。
津波警告が出されていたのにもかかわらず家に留まり逃げ遅れたとか、第一波襲来後に貴重品を取りに戻って流されたとか、そんなケースを何件か聞いている。あるいは、寝たきりで避難できなかった方もいたのではと思うとやりきれなくなる。仕事先が町外で、そこで被災した方も少なくないようだ。
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特にお隣、陸前高田の市街地で遭遇した場合、致命的とも言えた。津波警報が出て直ちに高台に非難と言っても、平坦地の広いこの町では、高台は遥か彼方である。車が無ければ、当然、近くの高いビルに非難することになる。しかし、波はビルの4階まで達している。それ以上階数のあるビルは数えるほどしかない。だいたい、あのような巨大な波が来るとは誰も想像していない。助かるかどうかは、残念ながら運でしかなかったようだ。大きな揺れが発生した時点で津波を予測し、兎に角高台を目指して急がなければならなかったのである。
お盆の帰省中に、被災したこの市街地跡を初めて見て回った。その際に市民体育館に立ち寄る。ここは市の指定避難所の一つになっており、3.11当日には約80名の方々が集まってきたらしい。海岸から800m程離れているこの堅牢そうな施設も、巨大な波に襲われた。内部の二階は観客席になっており、避難された方はこの席に座り、待機していたと思われる。津波は、無常にもこれより遥かに高い所に達し、殆の方が亡くなっている。奇跡的にも、僅か3名の方が、館内の梁にしがみつき生還しているようだ。
市民体育館内部
時計が15:30で停止
波は天井近くまで達している。
建物の入り口には、犠牲者を弔う祭壇が設けられていた。左隣の方には、回収された多くの写真アルバムが所有者も分からぬまま、埃をかぶり無造作に箱に入れてあった。最初に手にした写真は、昭和5年と記された女学校の卒業記念写真である。明治生まれのおばあちゃんを偲ぶ遺品だったのかも知れない。次に手にしたものは、あどけない女児のスナップ写真集である。地元で開催されたロードレースの写真もあった。それぞれ人生の一頁が収められている。見ていたら切りがない程、あまりにも多い。あれから5ヶ月、未だ誰も持ち帰る関係者も現われずに残されたアルバム(「遺された」とは言いたくない)。皆無事であってほしいと願うばかりである。
市民体育館に回収されたアルバム
持ち主が現れず、残されたアルバムはどうなるのだろうか。できれば、全てデジタルスキャンで取り込み、ネットで閲覧できるようにしたらどうであろうか。陸前高田を偲ぶ貴重なアーカイブ写真集になると思う。ボランティアの方々の活躍に期待したい。
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