---
この地に引っ越して30年近くなる。暫く気づかなかったのだが、周辺を散歩していたら、閑静な住宅街の向こうに、どこか異様で巨大な煙突がそびえているのを発見した。見慣れた銭湯のそれよりも倍の高さがあろうか。写真で見た強制収容所の煙突にどこか似ている。何だろうと不思議に思いその施設に近づいてみたら、火葬場だったのである。拙者の住居からはある程度離れており、気にはならなかった。道向こうの桜の木が落葉すると、部屋の窓から煙突の先頭部が見え、時々煙を噴き上げていた。その度に、どなたか存ぜぬが、ご昇天されたのだと心で合掌したものである。
周辺は高いマンションでも4階程度と、比較的低層の住宅街であった。その中に、広大な敷地を有する某大手総合商社の社宅もあった。樹木で囲まれた敷地には、テニスコートがあり、有閑マダムが優雅にゲームに興じるお姿をよく拝見したものである。
このような周辺環境に配慮したのであろうか、近所の古びた斎場が建て替えられ、雅叙園クラスの宴会場かと見紛うほどの豪華な建物に生まれ変わったのである。しかも、死者の魂はどこから昇天するのか知る由もないが、斎場は無煙突式になった。江戸時代からそびえていたはずのこの地を象徴していた煙突が、永遠にその姿を消したのである。
---
それから数年後、大手商社の社宅が取り壊され、突如として13階建の巨大分譲マンションの建設計画が持ち上がった。それまで、周辺環境を乱すことなく、大人しくしていた訳であるが、儲かればなりふり構わずと、上場企業とも思えぬ豹変ぶりだった。
当然、周辺住民は騒然とし、街の景観を守れと反対運動を展開したようである。そこは百戦錬磨、かつて航空機取引で世間を湧かせか大企業。その後まもなく住宅街の狭い道に工事用ダンプカーの往来が激しくなり、巨大マンションの完成を見るに至ったのである。近くで傍観し、その手際の良さには程々感心したものである。
後で気づいたのであるが、かつてこの地を象徴していたグロテスクな巨大煙突の存在が、周辺の建物の高さを暗黙のうちに自主規制させていたのである。これを「無言の抑止力」とでも言おうか、一見無駄な存在と思われていた物が、実は重要な役割を果たしていたことを、無くなってから認識した次第。そして、気づいた時には、手遅れだったのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿