今月、末中在京OBで集まった際に、何名か古い写真を持参してきた。その中で特に目を引いた写真がある。被写体となった人物もそうではあるが、それ以上に背景にその理由があった。50年の時の変化をモロに感じさせてくれるのである。古い写真には、末小の校舎が写っている。懐かしい本校舎(旧校舎と言った)、新校舎、その後方には、建築されて日が浅い講堂が僅かに見えている。これらは皆取り壊されて久しい。現在は、鉄筋校舎 (それでも30年以上は経過し黒ずんだ異様な箱型の変哲もない建物)や体育館に替わっている。当時は、グラウンドの斜面には大きな樹木は皆無であったが、今は鬱蒼とした樹木に囲まれ、わずかに今回の震災でグラウンドに建てられた仮設住宅が見えている。後方の山の斜面も変貌が著しい。当時は、戦時中の乱伐の影響で、松の幼木やススキで覆われていた。今は、大きな松の木に替わり、間伐もされずに伸び放題である。写真左の斜面の畑は、当時すべて耕作されており、冬場は麦の緑の畝で一杯だった。今は耕作放棄地となり、自然樹林に代わっている所も少なくない。
右は帰省時に同じ地点から撮ったものである。
50年で野山は一変するのは、日本の恵まれた自然条件の賜である。四季を通じ雨や雪とで豊かな水や陽の光に恵まれている。動植物の多様性で土壌も比較的肥沃、植物が育たないところは稀である。外国に目を転ずれば、地下水の枯渇や塩害、そして地球温暖化により砂漠化が進行しているという。これを思えば日本は恵まれている。
一方、同じ50年でも、日本では海外の技術や経済システムのモノマネばかりをしている間に、白砂青松の浜辺を石油コンビナート等の工業用地に埋め立て、食料の半分以上は海外に頼り、エネルギーもほとんと輸入に依存するようになってしまった。今日の円高や原発問題で、経済的に非常に不安定な状況に置かれているのは当然のことかも知れない。安易に肝心なことを他者に依存すればどういう結果をもたらすかは明らか。お人好しの我が国は、50年間これと同じ事をしてきたのである。
今回の危機を反省し、今後50年で肝心の食料やエネルギーをある程度国内で自給できる体制に戻すべき時と思えるのだが・・・。何も変わらずこのまま旧弊に従って行けば、信じたくはないが、その頃世界は食料・エネルギー危機でトンデモない時代になっている可能性が大きい。今からでも遅くはない。国土の豊かな自然条件を生かし、それと共生し得る独自の技術や経済制度を徐々に確立していく必要がある。であれば、拙者この世に存在している可能性は極めて少ないが、日本に限って言えば50年先の未来も明るいと言える。そして、食料・エネルギー危機の人類共通の問題を乗り越える上で、日本が口先だけでなく、真のリーダーシップを発揮できる技術力や実行力を兼ね備えていることを願いたい。
PS: 古い写真の提供者は、写っている3人兄弟の右端の彼女である。現在はペンネームのような実は本名でもある「松竹幸子」で、半生を書いた本「明るく朽ちる」を上梓している。幼馴染で、サッチとか呼び捨てでサチコと今でも呼んでいるが、9年間で一度も同じクラスになったことがない。何を書かれているかは知らないが、特にいじめた記憶もないので、拙者も一度読んでみるつもりである。
尚、写真の使用は、電話でご本人の許可を得ている。
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