震度7のあった夜に引き続き、翌日深夜(正確には2日後なんだろうが…)にまたもや地震警報…。熊本の震災には驚いた。
ちょうどその時TVを観ていたが、余震だろうと思った。ところが、何度も地震警報が現れては、震度6と報道される。それが何度繰り返されただろうか。余震にしては揺れが大き過ぎるし、頻発するのには異様に感じた。東京では幸い揺れは全く感じなかった。何時迄も起きている訳にはいかず、ひとまず床についた。
翌朝起きると、こちらの頻発した地震が本震であることを知る。2日前の最も大きな震度7の揺れが前震。この時、被災地は益城町周辺と限定的?だった。本震では、それまで耐えた家屋が倒壊するなど被災地は拡大し、10万を遥かにオーバーする多くの避難生活者を生んでしまったようである。避難所を敬遠し、車上で暮らす人も多いという。一体どれだけ多くの人々が避難しているのだろうか…。3.11震災の記憶が未だ生々しいだけに、身につまされる。
3.11の時は午後の日中であり、周囲の様子をうかがい知ることができたし、本震の揺れは長かったけれども、その後は驚く程の強震は(首都圏で)無かったように記憶している。今回は深夜帯である。強震がこれでもかと何度も襲ってくる。暗闇でいつ倒壊するとも知れぬ家屋の中で、その恐怖は3.11以上に過酷なものだったに違いない。
家屋はもとより生活に必要な道路・水道・電気等のインフラも相当破壊されたようであり、避難生活は長期化しそうである。これだけの規模では、短期にインフラを整備し仮設住宅を用意することは難しいだろう。
そこで思うのだが、3.11後に用意された仮設住宅に一時的に身を寄せてもらうのはどうだろうか。末崎小グラウンドに設けられた仮設住宅しか知らないが、5年も経過すると相当空き室が発生している。正確に数えてはいないが、60-70%位は空きのように感じる。とすれば、被災地全体でも、数万戸の空き室が発生している可能性がある。これらを再利用できないものだろうか。
これから夏季を迎える。熊本は南国であり相当の猛暑であろう。また台風による、土砂崩れや土石流等の二次災害も気がかりである。東北の沿岸地域ならば、太平洋からの南風で夏季は過ごしやすいし、台風も少ない。遠方になるのは気の毒ではあるが、仙台や花巻からの飛行機便もあるだろう。再建の見通しがつくまで、東北に一時的に身を寄せてもらうのはどうだろうか。空き室が増えていく中で、孤立化し疎外感を覚えている仮設住宅居住者も少なく無いだろう。新たな入居者が加われば、交流も生まれる。
田舎の同級生も仮設住宅暮らしをしていたので、帰省した際には何度か訪ねている。知人は奥さんと二人暮らし。サイズはピッタリで、意外と暮らしやすいように感じた。冬場も、寧ろ狭い方が暖房効率も良いだろう。地域によっては、人里離れたところとか日常の買い物にも不自由する劣悪な環境のところもあるようだ。が、全てそういう訳では無い。寧ろ買い物が便利になったところも少なくない。
立根町(大船渡市内)にある家電量販店に行った時、近くにあった大船渡第一中学校(一中)に立ち寄ったことがある。半世紀前の中学生時分、水田の中の砂利道を盛駅から1時間程歩いて来たものだが、今では周辺は一変し、スーパーや量販店が多く、3.11後は市内の最大商業スポットになった感がある。その一中グラウンドが、仮設住宅になっていたのには驚いた。立根は内陸であり、地元民は被災していない。とすれば、大船渡町や赤崎町あたりの沿岸住民が入居した可能性がある。たぶん、今では相当空き室が発生しているだろう。新幹線の水沢江刺駅までも、立根からだとクルマで1時間程度。住むのに便利な仮設住宅を、空き室のままに放置しておくのはもったいない。
全国(世界中)からのボランティアが、3.11後の復興に大きな力となっている。それを認識する地元自治体も暖かく受け入れてくれる筈である。
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仮設住宅の空き室情報参考サイト:
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末崎町に建設されたモダンな震災公営住宅
仮設住宅からの引っ越しが進んでいる…。
保育園、小・中学校、仮設の医院、歯科医院、BRT駅が周辺にあり、
今後末崎町の中心地区に…。
BRT(JRバス)は、午後の時間帯によっては30分間隔で利用でき、
買い物・通学・通院に便利。クルマ無しでも生活できる。
(写真はシタボさんのブログより拝借)
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