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2012年6月24日日曜日

ケセンDNA

昨日、高校の同級生に誘われて、大船渡出身ピアニストHさん主催のチャリテイーコンサートに行ってきた。昨年に続き第二回目である。演奏者は、Hさんとお嬢さんは昨年と同じで、更にチェロの親子デュオのプログラムも組み込まれていた。スタートは、お嬢さんの独奏。昨年は、フランス留学から帰ったばかり?で、ショパンのピアノ協奏曲を演じたが、今回はクープラン、ドビッシー、ラベルとフランス一色。お若いのに技量は確かである。次はチェロの若手女性演奏家。初めて聴くが、難曲にもかかわらず、ピアノ伴奏との息もバッチリ。同じチェリストのお父様とのデュオは、聴き覚えのあるエルガーやシューベルトの曲で、好評であった。

@相模原市橋本 - 杜のホール

主催者のHさんは高校一学年下のピアニスト。お名前だけ当時より知っており、高校の音楽室で何度かお会いしたこともある懐かしいお方である。旦那さんとご一緒に、コンサートを通じ大船渡の震災支援活動を行なっている。

多くの聴衆のなかで、彼女の同級生が4名(男女各2)、一学年上の我々が2名(男女各1)集まり、コンサート後、この同窓6名だけで、橋本駅ビル内の居酒屋に立ち寄り話に興じる。男性の一人は弁護士である。大学も一緒で、当時コンパで何度か飲んだ縁がありよく知っているが、会うのは20年ぶりか…。大船渡出身の弁護士は超レアであろう。やはり、何年も挑戦し続けたようである。その間、暫くは東京に残り予備校に通い、その後の何年かは田舎で独学したそうである。田舎にいても、家業を手伝い、地元の会合にも参加するなど、必ずしも猛勉強一辺倒ではなかったという。それでも、独学していた時の方が、東京にいて学校に通っている時より、勉強の成果が上がったという。

学校が悪い、先生が悪いと他人のせいにせず、気仙の若い方々には、震災にもめげず、自信をもって精進して頂きたい…。

また、メンバーの一人のお嬢さんは、シンガーソングライター「タマル」で現在活躍中である。拙者は知らなかったが、先日ボクシングで井岡と戦った選手の母親が、1-2学年離れた高校の同窓であるということには驚いた。また、一学年下の同窓には、小説を書かれている方もおられ、最近、その作品が受賞(「狂い能」)している。

拙者の狭い交友範囲の中でも、ケセンDNAは、故郷を離れても結構活躍しているのである…。


PS:
先日は、久々の更新作業。操作画面が変更されており、前回投稿の「原発」関連記事を誤って削除してしまった。バックアップしていないので、再生できないのは残念ではある…。

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2012年6月22日金曜日

末中OB復活アルバムと文集


来月に迫った「還暦祝い」に向けて制作している写真集が完成、別冊の文集も校正が終わり、印刷できる状態になった。


「末中OB復活アルバム」と別冊の「思い出文集」


還暦を翌年(本年)に控え、故郷は震災で被災し、お祝いどころではなくなってしまった。そこで故郷を遠く離れて暮らす我々在京組が、震災後に集まり相談した。そして、先ずは思い出の復活からと、写真集「末中OB復活アルバム」を制作してきたのである。ところが、末小時代(昭和30年代)に仲間と撮った写真がなかなか無いもので、集めるのに苦労した。盛岡方面に出かけた2泊3日の修学旅行の写真さえない。あの頃は、写真を撮る行為は、特別な事のようであった。6歳下の妹には、小学校の仲間と撮った写真が腐るほどあるのに…。

写真集だけでは物足りなく感じ、次には文集の制作も始めることになった。当初は写真集の付け足し程度に思っていたのだが、原稿が徐々に集まり、当方も気合が入りかなりの長文になってしまったことで、写真集を遥かに超える頁数になってしまった。

今年の4月に田舎で最初の打合せがあり、「還暦祝い」が7月に挙行されることに決定した。元々、震災1周年後に被災者と物故者ご遺族に届けようとスタートしたのであるが、予定を変更し「還暦祝い」で写真集と文集を配布することになった。

還暦祝いで撮る写真のスライドショーを作ってくれと言われていたので、試しに「復活アルバム」をビデオ化してみた。初めてのビデオ制作であった割りには、自分で言うのも何だがバッチリうまく行った。好きな曲をBGMに展開していくことで、予想もしなかった効果を生み、写真集と同じ素材を使っていながら、紙媒体とは全く違うものが出来上がったのには正直驚いている。ビデオ制作が病みつきになりそうだ…

この作業の最終段階で問題点が判明した。DVDプレーヤーで読み取り可能な書式でダビングすると、画質がやや劣化するのである。オリジナルは、卒業写真の皆勢揃いの小さな顔でも鮮明に写だしてくれるのだが、DVD版では顔がボヤけてしまう。制作している本人としては、この画像劣化には腹立たしさを覚える。恐らくは著作権保護のことで、そのような措置がとられているように思われる。困ったものだ…。

本来、著作権なんていう物は、印刷技術や録音技術の普及のお陰で、人間が勝手に生み出した権利モドキではないのか。ということは、著作権は技術革新があってのことである。ところが、最近では、著作権が技術革新を阻害する、誠に皮肉な現象が起きている。新技術で著作権が侵されるとホザカないで、むしろ新技術を前向きに取り込んでいく積極果敢な姿勢が求められる…。

写真集から文集も制作するとは、いわゆる「想定外」だったが、写真集のビデオ化もはたまた「想定外」…。暇人だから可能だが、本人結構楽しんで制作していた。唯一心配の種は、編集ソフトの搭載した老いぼれマックパソコン(eMac)がいつ不機嫌になるかだったが、印刷する文集原稿もPDF化しUSBメモリーに保存したのでホッとしている。


ビデオもいずれプライバシーに関らない箇所でも公開できればと考えている。震災前の細浦駅や周辺の町並みの美しい映像が含まれているので…。



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2012年2月24日金曜日

正月過ぎの帰省

20年ぶりに気仙ライナー(高速夜行バス)を利用し、正月過ぎに帰省した。前回は、参列リクライニング席で、移動中は快適な夜を過ごせたのだが、今回は歳のせいか、全くの同じ条件でありながら、座り心地が気になり殆ど眠れなかった。リクライニングにすると、体が座席に対して限りなく並行になり、車の振動で腰部が徐々に滑り落ちてしまうのが気になってしょうがない。腰部の席が、体に対して直角になるように角度を調節できれば、このずり落ちの問題は解消できるのではと思うのだが・・・。


旧4村連合体 - 今また交通弱者に:
JR大船渡線はいつ復旧するかわからず、自家用車の無い拙者には、帰省時の交通手段に当分悩まされそうだ。また、高速バスは、陸前高田でも竹駒寄りで、大船渡は盛サンリア前で、その中間に位置する末崎は素通りされてしまうのもシャクである。その間に、米崎、小友、広田、末崎と四つの町がある。このエリアの人口は2万人弱であろうか、公共交通の弱者に置かれてしまっている。
嵩上げ工事中

昭和2-3年に編集された末崎村史(著者:岩崎浅之助、当時末崎小学校校長)の復刻版が、実家にある。それによると、明治から昭和にかけて、これらの町(当時は村)は4村連合の自治が運営され、また村対抗の運動会も開催されていたらしい。商工業の町である高田や盛・大船渡には、当時仲間に入れてもらえなかったようである。言わば、弱者連合だったといえようか。戦後の町村合併で末崎だけは大船渡市に編入された。平成の今日、かつての弱者連合村は、またしてもこのような状況に置かれている。


不便な交通網:
自家用車があれば問題ないのだが、老人世帯で車を利用できない家だってある。拙者の実家だったそうだ。が、昨年、近所にスーパーがオープンし買い物だけは便利になった。JAや仮設の診療所も町の中央にある中学校付近(中央といっても海から離れ、保育園と小中学校しか無かった)に移転してきた。町外に行かない限り、我が家においては以前より便利になったケースもある。問題は、遠くに出かける時だ。例えば上京する時である。一度、盛か高田に移動し、そこで一ノ関もしくは仙台行きの長距離バスに乗り換えなければならない。その便数はそれぞれ日に2便しかない。そして、始発の時間が6-7時とメチャクチャ早かったりする。バス停に近ければよいが、弱者地区にはそれに間に合うローカルバスが無い。一体、何を考えて運行スケジュールを立てているのだろうか。帰京する時に、一ノ関行きのバスを利用したのだが、途中、気仙沼でJRに乗り換えようかと一瞬考えた(4日間東日本JR乗り放題のチケットを入手していたので・・・)。ところが、そこでの待ち合わせ時間が1時間半。待っている間に、バスは一ノ関に到着しているのである。バカバカしい。バス会社は、意図的に接続を悪くし、JRへの客の流出を抑えようとしている魂胆がミエミエである。困ったものだ。JR利用者としては、大船渡線はせめて矢作(気仙地区西端の駅で唯一被災していない)まで来てくれると助かるのだが。
大船渡駅跡


大船渡の商魂:
斯くの如く、気仙ライナーは盛に7am前に到着した。自転車を組み立て、来た道を途中(丸森展勝地)まで戻ることになる。なるべく楽な平坦地をとるので、当然被災エリアを通る。大船渡町に入ると、かつての大通りは嵩上げ工事が行われ、舗道より50-100cm程高くなっている。朝のラッシュで車が多く、狭い車道をまともに走られないので閉口する。大船渡駅舎跡に着いた頃、朝日が昇る。このあたりもすっかり流された。ガレキの道を暫く走ると、仮設の飲食街に出た。商魂逞しい人々の負けん気を感じる。元々大船渡は港町で、飲み屋が多かった。今は、復興関連工事で作業員の出入りが多いのだろう。当然、夜は相当にぎやかになる。兎に角、人は食わなければならない。懐に多少ユトリがあれば、酒や色気も必要だ。
大船渡-仮設屋台村

末崎に到着:
同じ被災地でも、末崎の細浦地区(町の最大集落地)には、そんな気の利いたものはない。ガレキは殆ど片付けられ、ただ荒涼とした平地があった。ただ、ことごとく町が消え失せた陸前高田や気仙町の今泉辺りに比べ、大船渡線の山側や高台には、多くの家々が見えるので、多少はホッとする。町の再建は十分可能だと思う。町内には耕作放棄された田畑が多いので、被災者の高台移転の為の用地はなんとか確保できよう。従来の(部落)コミュニティを維持する上でも、一戸建てよりは、2-3階の低層集合住宅を建設するのは如何であろうか。土地が節約でき、しかも共同出資により遥かに安い予算で建てられると思うのだが。そして寒冷の地には、冬場は比較的過ごしやすい筈だ。

とそんなことを考えながら実家に到着した。

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2012年1月11日水曜日

伊藤整:ある詩人の肖像

津波で田舎の線路は流され不便になったので、混雑する正月は帰省を断念。その代わり読書三昧で時間を過ごすことにした。そんな訳で、正月休み前にいつも利用している図書館に行き、日本文学全集の書架の前で適当なものを探した。出来れば長編小説がよかろうと、比較的厚みのある書を手にとっては内容を調べた。そして、長編小説が3篇掲載されていた「伊藤整集」を借りることにしたのである。

伊藤整の名はチャタレイ裁判で昔からなんとなく知っていた。そんな訳で、英米文学の翻訳家とばかり、実は長い間思っていたのである。10代の頃は詩人を目指し、後年小説家となったようである。彼の作品を読むのは今回が初めてだ。

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最初の「青春」は興が乗らず前半で断念。次の「ある詩人の肖像」に移った。ところが、俄然これが面白いのである。詩人を目指していた青春時代の自叙伝と言って良い。書かれていることは殆ど事実であろう。しかし、詳細な心理描写は、作品を書いた時点から更に30年も前のことなので、記憶は曖昧になっているはずだ。ということで、自伝ではあっても、心理描写はフィクションと言って良いので、小説とみなされる所以かもしれない。

大正時代、北海道小樽を背景とした、当時の時代風景が手に取るように分かり面白い。また、東京を中心とした当時の文壇の動きが、北辺の小都市の文学青年にも敏感に伝播していた文芸活動にも目を見張るもがある。拙者は、それから40年後(昭和40年代)の三陸の漁村で高校時代を過ごしたのだが、文芸や人脈の点で、北辺のしかも40年前の小樽の方が遥か進んでいたことに驚嘆した。

時は大正10年頃の文壇の様相である。島崎、徳田、田山の時代が過ぎ、谷崎潤一郎や志賀直哉、武者小路実篤の白樺派を筆頭し、室生犀星、芥川龍之介、豊島与志雄、広津和郎、菊池寛、宇野浩二ら、多くは30歳前後の作家が業界を席巻していた。また哲学では西田幾多郎、経済学では河上肇らが活躍していたようだ。ちなみに、大正10年は90歳になった拙者のオヤジの生まれた年でもある。以上の作家は、拙者が高校時代の現代国語に載っていた懐かしい作家群でもあり、当然、図書館や書店には、彼らの著作が多かった。その頃の教育指導者や校長クラスは、大正の息吹を直接体験していた世代でもあり、我々高校生がこれらの作品に多く触れる機会が多かった訳である。が、当時拙者運動に明け暮れ、ブンガクにはあまり関心がなかった。にも拘わらず、彼らの名前だけは一応知っている。先年、書店に入って気づいたのだが、拙者の学生時代(35-40年前)に見かけたそれら作家の作品は店頭から殆ど姿を消していたのには驚いた。せいぜいケントウしているのは、夏目漱石、太宰治、そして宮沢賢治位のものか・・・。

作者(主人公)の1学年上(小樽商高)には、小林多喜二が文芸のリーダーとして活躍し、学校には、日本人を妻とした帰化同然の欧米の先生がいて、ネイティブな英語教育も受けていた。 作者 はまた、小樽のホテルにこもり小説を書いている婦人 (山田順子のこと、当時小樽の某病院長の妻で、後に徳田秋声の愛人として有名に)のことを地元新聞の報道で知り、地位や財産を利用した売名行為に憤り、そして才色兼備の才能に嫉妬している。大正時代の文壇の若きホープであった芥川龍之介と里見惇が来道し講演会を行なっている。 作者 もこれに参加し、芥川の異様にやせ細った晩年の姿をたまたま目撃していたのである。この講演会後まもなく、芥川は自殺している。このように、中央から遥かに離れた地方都市においても、文芸史のウラ話的逸話が、筆者の周りに幾つも転がっていたのである。

日本一の詩人を目指し(妄想)自己啓発に務めながらも、小林多喜二らの文芸グループに属することを心良しとはせず、適当に距離をとっていた。本当に感動した詩をノートに書き写し、筆者の感性が磨かれていった。すると、その選択基準が益々高くなり、安易にはノートされなくなった。彼の厳しい基準をクリアしノートされるのは、殆が無名の詩人ばかりで、いわゆる大家と称される詩人のものは殆ど感動を得るものが無かったという手厳しい評価は面白い。

文芸がそうであるように、技術分野についても同様のことが言える。絶対に安全とお墨付きを与え、50基以上の原発を建設してしまった。それが3.11で、安全神話が崩れ、トンデモない誤りであったことが暴露されてしまった。それ以前にも、不沈戦艦ヤマトしかり、日本の不敗神話しかり。専門家と称する者の言っていることは、必ずしも真実ではないのである。大家だからとか、権威だからとか、国が推奨していることだからと、何の疑いもなく信ずることは実に危うい。教育にしても、教科書の内容だけ教える教育はヤバイ。むしろ、健全な批判精神を養う訓練こそが、本来あるべき教育ではないだろうか。と話は脱線、もとに戻す。

この小説は、詩人としてスタートした筆者の感性が遺憾なく発揮されている。当時の詩作について文中で次のように記している。

「私は現象の形を追求することをせず、何かのイメージが少しずつ形をなして、心の中に育つのを待つようにした。それ故、自分の詩がイメージにおいては空想的で、字句においては平易であるような詩を私は好んで書いた。」

決して難解な語句は使っていない。限られた平易な語句だけで、よくぞこれだけの表現ができるものだと感心せずにはいられない。本人の回想だけに、微妙な心理描写は真に迫ってくるものがある。

小樽商高卒業後、進学を一時断念し、困窮の両親の意思もあり、仕方なしに新設の地元中学校の教師に就く。この時の、校長の教育方針のもとに、成績順にクラス編成を行なっている。成績の優れた生徒にはより高度な教育を、成績の芳しくない生徒には基礎をしっかりと叩きこむということは分からないことはない。しかし、受験を経てある程度以上の学力を持った者が入学してくるのである。誰でもが入ってくる小学校のような、自然発生的な人員構成ではない。そこで更に成績順にクラス分けを行なう教育の目指す物は一体何か。それは、受験しか有り得ない。有名校にどれだけ進学したかが教育者の評価につながる。それが教育の最大目標となっているとすれば愚かなことだ。このバカバカしいことが、当時も、いわゆる「お受験」の今日も、まかり通っているのだ。

実は、拙者が入った高校でも、入学前年まで席順が成績順になっていた。学生服の襟章にはクラスバッチ(AからD)も付けることになっていたので、町の人も生徒の成績程度が分かるようになっていた。だから入学前は、中学生の仲間で評判が悪かった。そのS校長は、拙者が入学した年に他校に赴任していた。が、まだその影響は残り、クラスは入学試験の成績で編成されたが、3年生時には成績順ということはなくなった。入学当時、机には番号が付されていたと記憶している。それが、前年までは厳しい校長の指導のもとに、成績順に並べられていたのかもしれない。

その後 作者 は、念願叶って東京の学校(現在の一橋大学)に進学し、同世代の文学仲間と接触するようになる。特に、梶井基次郎との出会いは、内気で多少アマノジャクの感が無くもない筆者にさえも、大きな感動と喜びを与えている。別の伊藤整集巻末に掲載されていた、 作者 の息子の「父の死」の回想では、病床で梶井基次郎との出会いについて何度も語って聞かせたようである。「ある詩人の肖像」は、十分な文芸活動も果たせず、そして広く世に認められることもなく、不治の病に倒れていった梶井基次郎を後世に伝えるべく書かれたものではないだろうかと、読了後そのように思った次第である。

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明日夜行バスでケセンに帰省することにした。
伊藤整の次に、山本有三の小説も読んだので、その感想は上京後に報告したい。


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2011年12月14日水曜日

胃カメラ検査体験記

本日、人生初めての胃カメラ検査を行った。

11月になった頃より、腹部(胃のあたりか)に違和感を覚えるようになった。しかも空腹感が湧かないのである。ほっとけば時期良くなるだろうとおもいきや、改善の兆しがみられない。今月に入っても症状は依然と続いていた。傷みはないものの気掛かりである。

20年近く健康診断をうけていないので、もしや胃ガンかとも想像した。兆候が現れた時には相当進行していると言うことでもあり、末期段階になっているやも知れない。とそんな最悪のケースも頭を過ぎり、夜ねつかれないこともあった。

だが、食欲はあり、体重の減少はみられない。便も健康色である。自らは喫煙したことはなく(他人の喫煙の二次被害者ではあるが)、酒も飲むことは稀であり、毎夜ジムで汗しているので、癌とは縁遠い生活環境にあると自負してはいたのではある。それでも、腹部の違和感は収まらない。

そんな訳で、近所の胃腸科の病院をネットで調べて見ることにした。その中で、2-3の適当と思われる病院が見つかった。二つは個人医院で、一つは地元の入院病棟を備えた中規模総合病院である。更に病院クチコミサイトを調べ、3つのうちで、内視鏡検査に関するクチコが4件程投稿されていた病院があった。いずれも好意的な内容で、しかも最近の投稿である。早速、自転車で出かけ、その病院を外からチェックしてみることにした。駅からだいぶ離れた普通の住宅街にあった。近くにあった看板にも「内視鏡検査」と書かれてある。個人で独立しているということは、それだけ技術に自信があってのことだろうと思われる。建物は住宅風で新しい。

先週、この個人医院で簡単な診察を受け、翌週(即ち本日)内視鏡による胃の検査を行うことにしたのであった。どことなく頼りなさそうな、拙者より遥かにお若い先生。また内視鏡検査の説明を看護師さんから受けた部屋の設備が貧弱そうな感じ(実は、その奥の部屋に内視鏡設備があったのだがその時は知らなかった)。正直、任せて大丈夫だろうかと不安が募ってきた。むしろ、設備の充実した中堅規模の病院で総合的にチェックしてもらったほうが良いのではとも思ったのであった。あれやこれや迷っているうちに面倒になり、本日を迎えてしまったのである。

内視鏡検査は、はっきり言って、無意識のうちに完了してしまった。最大の苦痛は、看護師さんから注射され、薬液を飲まされ、唾液が喉を通りにくい状態のまま、薄暗いベットの上で俯き加減の状態で長時間放置されていたことである。腰がベルトで固定され、寝返りができないのである。いい加減イライラしてくる。これではマズいと思い、看護師さんが様子見に部屋に入ってきた時に緩めてもらったことで、多少はリラックスできた。それでも先生が現れない。午前中の来患者の診察が長引いているようである。(後で、内視鏡を挿入していた時間を聞いたところ5分とのことで、40分程ベットの上で放置されていたことになる・・・。)

そして、やっと先生が部屋に現れた。そして、口に直径4cm程の緑色の開口固定具を嵌めこまれた。拙者、元々口が強制固定されると、背中に脂汗が出るような強烈のストレスを感じる体質(歯科治療で体験済み)なので、一度は拒絶したが、10分程の我慢と覚悟を決めて口に装着したのである。

最も苦しい辛い時間と思いきや、意識がその時より完全に無くなってしまった。気づいた時には、検査が終了していた。エッもう終わったの?と信じられない気持ちであった。鉛筆の太さの長いチューブが喉を通り胃にまで挿入されるので、苦しくない訳が無いと思っていたのだが、それが全くなく、というよりは完全に無意識のなかで検査が済んでしまったのである。

検査後、呼ばれて先生の部屋にはいると、撮影した食道や胃の写真を見せながら、説明してくださった。胃に軽い炎症部は見られるものの、食道と胃には異状は無いとの診断結果だった。また胃の炎症も治療する必要はないとのこと。外は曇って寒かったが、気分が晴れた気持ちで、医院を後にすることができた。

昨夜の夕食後、検査の為何も食べてはいない。が、相変わらず空腹感は湧かない。空いたお腹に優しい麺類がよかろうと、遅いランチに駅ビルのチャンポン屋に入った。

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2011年11月22日火曜日

古民家で思ったこと

終日雨天続きの翌日、一転陽気な秋晴れとなった週末の午後、都内もそろそろ紅葉の季節かと思い、自転車を駆って杉並区の和田堀公園に行ってきた。この公園は善福寺川に沿ったのどかな川の流れと周辺の樹木が楽しめる、近郊の隠れた緑のオアシスだ。約4kmにも及ぶ遊歩道があり、自転車を走らせるには都合が宜しい。春の花見、初夏の新緑、そして紅葉。初めてこの公園を訪れた時は雨上がりで、やや増水した川の流れが印象的だった。
銀杏には早かったが、他の広葉樹は色づき始めていた。今月末頃が紅葉のピークのようだ。上流の公園の端に行き着いたら、対岸に渡り下流にむかって緩斜面のコースを下る。
和田堀公園と善福寺川

出発点を通り過ぎ、さらに善福寺川に沿って下っていくと、杉並区立郷土博物館の標識を見つけた。何度もこの公園を訪れているのだが、博物館があるとは知らなかった。橋を渡り、狭い道を進むと、まもなくして長屋門が見えてきた。200年以上前に建てられたもので、この場所に移築されたようである。この中には、養蚕関連の展示品が置かれ、自由に見学することができた。拙者の幼少時分には、近所の農家や親戚で、蚕棚に飼っている蚕を見かけたものである。その後、一気に廃れてしまった。展示品は拙者の人生初期の記憶に確実に残っており、懐かしい。
杉並区立郷土博物館の長屋門

養蚕関連の設備機器(正面は蚕棚)

博物館の裏手は古民家があり、庭の周辺は鬱蒼としたケヤキやコブシの樹林に囲まれていた。江戸時代に建てられたこの住居は、長屋門よりも更に50年程古いが、かつて芦花公園で見た徳冨蘆花夫婦が実際住んでいた住居よりも広く、作りもはるかにしっかりしていた。中の囲炉裏では実際に火を燃やし、見学者はその周囲に膝まずき、たぶん地元の年輩ボランティアであろうか、男性説明員の話に耳を傾けていた。玄関を入ると土間で、台所になっており、当然煮炊きをする竈がある。やはり、拙者が10歳位までは、気仙の実家にも囲炉裏があり、江戸時代よりはマシなレンガで組んだ煙突付きの竈があった。燃料は当然薪である。電気はあったが、もっぱら照明用であり、プロパンガスは未だ無かった。このように、50年前までは、山から採取した木材が主力熱源だったのである。
古民家

囲炉裏

江戸時代の竈

高度成長の頃から家電製品が普及し、燃料は木から、電気・ガス・石油に変わってしまった。そして今では裏山は見捨てられ、森林は手入れもされず荒れるに任せた状態で、カモシカやアライグマが出没しては、畑を荒らし回っている。全国の沿岸に巨大な石油コンビナートが出現したのも高度成長期の頃であったと思う。そして、これとリンクするように、巨大タンカーも続々と就航していった。今となっては良いのか悪いのか判断しにくいが、日本も化石燃料である石油を大量に消費する時代を迎えてしまった。そして、これを前提とした都市づくりが行われてきた。狭い道には自動車が溢れ、明治時代からの今で言うエエコな市街電車は渋滞の元凶として嫌われ廃線となり、それらがよりエネルギーを大量に消費する地下鉄に替わってしまった。江戸時代までは低層の街並みが、百数十年後の今日では高層ビルがアチコチに出現し、エレベーターやエスカレーターが動き回り、人間の上下移動を助けている。エネルギー多消費が前提になければ考えられない都市構造になってしまった。そして、大都市の電力需要を満たすべく、遠方に危険な原発を建設し、田舎が放射能で汚染されてしまうという、実に皮肉な状況を迎えてしまった。

この古民家に通ずる伝統的生活を体験している最後の世代として、その後の驚異的な発展に、実は違和感を覚えていたことを告白せざるを得ない。そして、3.11で、その感を更に強くした。将来は、地球温暖化や人口爆発による食料不足が顕在化し、水不足も深刻な問題になることが予測されている。そして、これまでのエネルギー多消費経済を見直し、持続可能な経済システムについて関心が集まっている。この50年を実際に体験し、まったくその通りであると思っている。これまでの経済発展の恩恵は、地球規模で考えれば、日本を含む一部の人々しか享受してこなかった。今後、中国やインドなど多くの人口を抱えた国々の人々も、日本人なみの消費行動をとるようになったら、地球環境はどうなるのか、地球の資源は一気に枯渇しないのだろうか。まずは、平穏無事には済むことは有り得ないと思っている。

TPPにより関税を撤廃し、世界規模でより自由な貿易を目指すとする方向に進もうとしているが、それが持続可能な経済システムでありえるのか甚だ疑問である。自由経済とは、結局のところ世界規模でのマネーの追求である、と思っている。一応、「信用」を担保にした単なる紙切れの追求活動のために、本来あるべき産業が無くなっても構わないのだろうか。そしてまた、エネルギー多消費の経済活動により地球環境が乱されたのでは堪らない。

国内での交易は自由であるので、自由貿易経済の小規模モデルといえる。幕藩体制が崩れ、明治維新後の国内経済はどうなったか。都市の一極集中により多くの弊害が出てきているではないか。特に限界集落とか過疎の問題。そして食料自給の問題、また原発問題もその一つである。本来ならば、都市と農村が支えあって行かなければならない。ところが、いつのまにか都市の横暴といおうか、都市に都合の良い経済システムをとることで、地方は犠牲を強いられてきている。言わば、経済弱者は経済強者の犠牲になってきたのである。しかし、経済弱者が滅びれば、経済強者もいずれ滅びるのは確実であると思っている。何故なら、水も電気も、そして食料の多くが、田舎に依存しているからである。本来ならば都市と田舎は共存共栄の関係になければならないと思う。それが、今日では対立する状態に陥っている。

この小規模モデルから判断するに、世界規模での貿易自由化は、格差を更に助長するだけで、また環境も一層破壊するものと見ている。持続可能な経済モデルから全く逆行する行為と思うのである。

しかし、これまでの歴史からいっても、行くところまで行って破綻するまでは、進路を変えられないのが人間の性である。かつての大戦しかり、今回の原発しかり。人間は、特に利権が絡むと、国のことよりも業界の利益が優先されという、性懲りがない生き物である。政治家とか専門家の言うことは、せいぜい話半分に聞き、己の信じるところで生きていく他は無いようである。

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2011年11月14日月曜日

昔のジャンケン、他

TVの普及する前の昭和30年代、末崎の子供達は遊びに熱中したものである。その際に、順番や鬼を決めるジャンケンや、遊びでの文句や掛け声を半世紀前の記憶を辿り再現してみた。

ジャンケンの仕方:

1)大人数の中で順番を決める場合:

「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!、そ~お・ヒッツ!、そ~お・ヒッツ!・・・」
と、勝負が付くまで繰り返される。都会的な「ジャンケンポン」は絶対に言わなかった。


それで決まらない場合は、人数の絞り込みに、次のカミ(パー)とイシ(グー)の二者択一式に変える。

「イッペアッタコ、勝ッタ~アッコ、負けダ~アッコ、・・・(勝ッタ~アッコ/負けダ~アッコを順不同で徐々に加速していく)・・・」

「勝ッタ~アッコ」ではパーを、「負けダ~アダッコ」ではグーを出さなければ、負け組になる。ここで人数が絞りこまれ、また先ほどの「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!」が始まる。

2)二人で勝負の場合:

「そ~そ~そ~そ・ヒッツ!」方式と、たまにはゲーム感覚で次のようにすることもある。
「か~ぼちゃ撒いで(グー)、芽~出して(グーのまま親指出す)、は~な咲いで(ハサミ)、開~らいで(パー)、お~しゃ~しゃっか(その間両手を叩く)ヒッツ(グーを出す)、そ~お~ヒッツ(この時点で勝負が始まる)、・・・」

連想歌:

丸山三角はたいて四角、
四角は豆腐、豆腐は白い、白いは兎、兎は跳ねる、跳ねるは蚤、蚤は赤い、赤いはホウズキ、ホウズキは鳴る、鳴るは屁!、屁は臭い、臭いはダーラ*、ダーラは担ぐ、担ぐは水、水は飲む、飲むは酒、酒は酔う、酔うは船、船は走る、走るは汽車、汽車は長い、長いはおやじの褌だ!!

*ダーラあるいはダラ:人糞のこと

名前はめ込み歌:

例えば:

「やす子」さんをからかう場合、
「やす子やがつくやりやのやんすけ、やってやられやりコロサレた。」

「ただし」君の場合、
「ただしたがつくたりやのたんすけ、たってたられてたりコロサレた。」

遊び(特に女子)の時の歌:

鞠つき:

「イッチり~こらん、ニ~り~こらん、シンガラほ~け~ちょ、ちょんま~ら~ゲッ!!」
地面に鞠を着いた時に、「イッチり~こらん」で鞠の上を片脚を振り上げ、次の「ニ~り~こらん」でまた振り上げ、最後の「ちょんま~ら~ゲッ!!」の時に、鞠を股間の下でバウンドさせ、お尻のところで背面キャッチする。女子の場合は、スカートで捕球するので有利である。

その他、お手玉や縄跳びの時の歌もあったのだが、断片的にしか覚えていない。
お手玉では「おひとつ、おひとつ、おひと~つ」と歌って、小豆の入ったお手玉を何個も器用に扱った。

縄跳びでは「波を越えて、お山を越えて、おやまのおやまのドッコイショ!」と言って遊んだような記憶がある。

あとは「はないちもんめ」とか「通りゃんせ」とかもあった。
前者は「勝~ッてうれしいはないちもんめ、負~けて悔しいはないちもんめ、・・・××さんが欲しい・・・」と歌ったような・・・。後者の「通りゃんせ」はよく知られた童謡のとおりである。

以上は、女童子(オナゴ・ワラシ)が遊びで歌っていたものである。近所には男童子が少なく、小学校に入るまでは、実は拙者、小学生のお姉さん方に混じって遊んでいたのである。

以上は、一定のメロディーがあり、音符にすればよいのだが、割愛する。

遊びも様々で、詳細は次の機会に紹介したい。

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