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2011年11月22日火曜日

古民家で思ったこと

終日雨天続きの翌日、一転陽気な秋晴れとなった週末の午後、都内もそろそろ紅葉の季節かと思い、自転車を駆って杉並区の和田堀公園に行ってきた。この公園は善福寺川に沿ったのどかな川の流れと周辺の樹木が楽しめる、近郊の隠れた緑のオアシスだ。約4kmにも及ぶ遊歩道があり、自転車を走らせるには都合が宜しい。春の花見、初夏の新緑、そして紅葉。初めてこの公園を訪れた時は雨上がりで、やや増水した川の流れが印象的だった。
銀杏には早かったが、他の広葉樹は色づき始めていた。今月末頃が紅葉のピークのようだ。上流の公園の端に行き着いたら、対岸に渡り下流にむかって緩斜面のコースを下る。
和田堀公園と善福寺川

出発点を通り過ぎ、さらに善福寺川に沿って下っていくと、杉並区立郷土博物館の標識を見つけた。何度もこの公園を訪れているのだが、博物館があるとは知らなかった。橋を渡り、狭い道を進むと、まもなくして長屋門が見えてきた。200年以上前に建てられたもので、この場所に移築されたようである。この中には、養蚕関連の展示品が置かれ、自由に見学することができた。拙者の幼少時分には、近所の農家や親戚で、蚕棚に飼っている蚕を見かけたものである。その後、一気に廃れてしまった。展示品は拙者の人生初期の記憶に確実に残っており、懐かしい。
杉並区立郷土博物館の長屋門

養蚕関連の設備機器(正面は蚕棚)

博物館の裏手は古民家があり、庭の周辺は鬱蒼としたケヤキやコブシの樹林に囲まれていた。江戸時代に建てられたこの住居は、長屋門よりも更に50年程古いが、かつて芦花公園で見た徳冨蘆花夫婦が実際住んでいた住居よりも広く、作りもはるかにしっかりしていた。中の囲炉裏では実際に火を燃やし、見学者はその周囲に膝まずき、たぶん地元の年輩ボランティアであろうか、男性説明員の話に耳を傾けていた。玄関を入ると土間で、台所になっており、当然煮炊きをする竈がある。やはり、拙者が10歳位までは、気仙の実家にも囲炉裏があり、江戸時代よりはマシなレンガで組んだ煙突付きの竈があった。燃料は当然薪である。電気はあったが、もっぱら照明用であり、プロパンガスは未だ無かった。このように、50年前までは、山から採取した木材が主力熱源だったのである。
古民家

囲炉裏

江戸時代の竈

高度成長の頃から家電製品が普及し、燃料は木から、電気・ガス・石油に変わってしまった。そして今では裏山は見捨てられ、森林は手入れもされず荒れるに任せた状態で、カモシカやアライグマが出没しては、畑を荒らし回っている。全国の沿岸に巨大な石油コンビナートが出現したのも高度成長期の頃であったと思う。そして、これとリンクするように、巨大タンカーも続々と就航していった。今となっては良いのか悪いのか判断しにくいが、日本も化石燃料である石油を大量に消費する時代を迎えてしまった。そして、これを前提とした都市づくりが行われてきた。狭い道には自動車が溢れ、明治時代からの今で言うエエコな市街電車は渋滞の元凶として嫌われ廃線となり、それらがよりエネルギーを大量に消費する地下鉄に替わってしまった。江戸時代までは低層の街並みが、百数十年後の今日では高層ビルがアチコチに出現し、エレベーターやエスカレーターが動き回り、人間の上下移動を助けている。エネルギー多消費が前提になければ考えられない都市構造になってしまった。そして、大都市の電力需要を満たすべく、遠方に危険な原発を建設し、田舎が放射能で汚染されてしまうという、実に皮肉な状況を迎えてしまった。

この古民家に通ずる伝統的生活を体験している最後の世代として、その後の驚異的な発展に、実は違和感を覚えていたことを告白せざるを得ない。そして、3.11で、その感を更に強くした。将来は、地球温暖化や人口爆発による食料不足が顕在化し、水不足も深刻な問題になることが予測されている。そして、これまでのエネルギー多消費経済を見直し、持続可能な経済システムについて関心が集まっている。この50年を実際に体験し、まったくその通りであると思っている。これまでの経済発展の恩恵は、地球規模で考えれば、日本を含む一部の人々しか享受してこなかった。今後、中国やインドなど多くの人口を抱えた国々の人々も、日本人なみの消費行動をとるようになったら、地球環境はどうなるのか、地球の資源は一気に枯渇しないのだろうか。まずは、平穏無事には済むことは有り得ないと思っている。

TPPにより関税を撤廃し、世界規模でより自由な貿易を目指すとする方向に進もうとしているが、それが持続可能な経済システムでありえるのか甚だ疑問である。自由経済とは、結局のところ世界規模でのマネーの追求である、と思っている。一応、「信用」を担保にした単なる紙切れの追求活動のために、本来あるべき産業が無くなっても構わないのだろうか。そしてまた、エネルギー多消費の経済活動により地球環境が乱されたのでは堪らない。

国内での交易は自由であるので、自由貿易経済の小規模モデルといえる。幕藩体制が崩れ、明治維新後の国内経済はどうなったか。都市の一極集中により多くの弊害が出てきているではないか。特に限界集落とか過疎の問題。そして食料自給の問題、また原発問題もその一つである。本来ならば、都市と農村が支えあって行かなければならない。ところが、いつのまにか都市の横暴といおうか、都市に都合の良い経済システムをとることで、地方は犠牲を強いられてきている。言わば、経済弱者は経済強者の犠牲になってきたのである。しかし、経済弱者が滅びれば、経済強者もいずれ滅びるのは確実であると思っている。何故なら、水も電気も、そして食料の多くが、田舎に依存しているからである。本来ならば都市と田舎は共存共栄の関係になければならないと思う。それが、今日では対立する状態に陥っている。

この小規模モデルから判断するに、世界規模での貿易自由化は、格差を更に助長するだけで、また環境も一層破壊するものと見ている。持続可能な経済モデルから全く逆行する行為と思うのである。

しかし、これまでの歴史からいっても、行くところまで行って破綻するまでは、進路を変えられないのが人間の性である。かつての大戦しかり、今回の原発しかり。人間は、特に利権が絡むと、国のことよりも業界の利益が優先されという、性懲りがない生き物である。政治家とか専門家の言うことは、せいぜい話半分に聞き、己の信じるところで生きていく他は無いようである。

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