伊藤整の名はチャタレイ裁判で昔からなんとなく知っていた。そんな訳で、英米文学の翻訳家とばかり、実は長い間思っていたのである。10代の頃は詩人を目指し、後年小説家となったようである。彼の作品を読むのは今回が初めてだ。
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最初の「青春」は興が乗らず前半で断念。次の「ある詩人の肖像」に移った。ところが、俄然これが面白いのである。詩人を目指していた青春時代の自叙伝と言って良い。書かれていることは殆ど事実であろう。しかし、詳細な心理描写は、作品を書いた時点から更に30年も前のことなので、記憶は曖昧になっているはずだ。ということで、自伝ではあっても、心理描写はフィクションと言って良いので、小説とみなされる所以かもしれない。
大正時代、北海道小樽を背景とした、当時の時代風景が手に取るように分かり面白い。また、東京を中心とした当時の文壇の動きが、北辺の小都市の文学青年にも敏感に伝播していた文芸活動にも目を見張るもがある。拙者は、それから40年後(昭和40年代)の三陸の漁村で高校時代を過ごしたのだが、文芸や人脈の点で、北辺のしかも40年前の小樽の方が遥か進んでいたことに驚嘆した。
時は大正10年頃の文壇の様相である。島崎、徳田、田山の時代が過ぎ、谷崎潤一郎や志賀直哉、武者小路実篤の白樺派を筆頭し、室生犀星、芥川龍之介、豊島与志雄、広津和郎、菊池寛、宇野浩二ら、多くは30歳前後の作家が業界を席巻していた。また哲学では西田幾多郎、経済学では河上肇らが活躍していたようだ。ちなみに、大正10年は90歳になった拙者のオヤジの生まれた年でもある。以上の作家は、拙者が高校時代の現代国語に載っていた懐かしい作家群でもあり、当然、図書館や書店には、彼らの著作が多かった。その頃の教育指導者や校長クラスは、大正の息吹を直接体験していた世代でもあり、我々高校生がこれらの作品に多く触れる機会が多かった訳である。が、当時拙者運動に明け暮れ、ブンガクにはあまり関心がなかった。にも拘わらず、彼らの名前だけは一応知っている。先年、書店に入って気づいたのだが、拙者の学生時代(35-40年前)に見かけたそれら作家の作品は店頭から殆ど姿を消していたのには驚いた。せいぜいケントウしているのは、夏目漱石、太宰治、そして宮沢賢治位のものか・・・。
作者(主人公)の1学年上(小樽商高)には、小林多喜二が文芸のリーダーとして活躍し、学校には、日本人を妻とした帰化同然の欧米の先生がいて、ネイティブな英語教育も受けていた。 作者 はまた、小樽のホテルにこもり小説を書いている婦人 (山田順子のこと、当時小樽の某病院長の妻で、後に徳田秋声の愛人として有名に)のことを地元新聞の報道で知り、地位や財産を利用した売名行為に憤り、そして才色兼備の才能に嫉妬している。大正時代の文壇の若きホープであった芥川龍之介と里見惇が来道し講演会を行なっている。 作者 もこれに参加し、芥川の異様にやせ細った晩年の姿をたまたま目撃していたのである。この講演会後まもなく、芥川は自殺している。このように、中央から遥かに離れた地方都市においても、文芸史のウラ話的逸話が、筆者の周りに幾つも転がっていたのである。
日本一の詩人を目指し(妄想)自己啓発に務めながらも、小林多喜二らの文芸グループに属することを心良しとはせず、適当に距離をとっていた。本当に感動した詩をノートに書き写し、筆者の感性が磨かれていった。すると、その選択基準が益々高くなり、安易にはノートされなくなった。彼の厳しい基準をクリアしノートされるのは、殆が無名の詩人ばかりで、いわゆる大家と称される詩人のものは殆ど感動を得るものが無かったという手厳しい評価は面白い。
文芸がそうであるように、技術分野についても同様のことが言える。絶対に安全とお墨付きを与え、50基以上の原発を建設してしまった。それが3.11で、安全神話が崩れ、トンデモない誤りであったことが暴露されてしまった。それ以前にも、不沈戦艦ヤマトしかり、日本の不敗神話しかり。専門家と称する者の言っていることは、必ずしも真実ではないのである。大家だからとか、権威だからとか、国が推奨していることだからと、何の疑いもなく信ずることは実に危うい。教育にしても、教科書の内容だけ教える教育はヤバイ。むしろ、健全な批判精神を養う訓練こそが、本来あるべき教育ではないだろうか。と話は脱線、もとに戻す。
この小説は、詩人としてスタートした筆者の感性が遺憾なく発揮されている。当時の詩作について文中で次のように記している。
「私は現象の形を追求することをせず、何かのイメージが少しずつ形をなして、心の中に育つのを待つようにした。それ故、自分の詩がイメージにおいては空想的で、字句においては平易であるような詩を私は好んで書いた。」
決して難解な語句は使っていない。限られた平易な語句だけで、よくぞこれだけの表現ができるものだと感心せずにはいられない。本人の回想だけに、微妙な心理描写は真に迫ってくるものがある。
小樽商高卒業後、進学を一時断念し、困窮の両親の意思もあり、仕方なしに新設の地元中学校の教師に就く。この時の、校長の教育方針のもとに、成績順にクラス編成を行なっている。成績の優れた生徒にはより高度な教育を、成績の芳しくない生徒には基礎をしっかりと叩きこむということは分からないことはない。しかし、受験を経てある程度以上の学力を持った者が入学してくるのである。誰でもが入ってくる小学校のような、自然発生的な人員構成ではない。そこで更に成績順にクラス分けを行なう教育の目指す物は一体何か。それは、受験しか有り得ない。有名校にどれだけ進学したかが教育者の評価につながる。それが教育の最大目標となっているとすれば愚かなことだ。このバカバカしいことが、当時も、いわゆる「お受験」の今日も、まかり通っているのだ。
実は、拙者が入った高校でも、入学前年まで席順が成績順になっていた。学生服の襟章にはクラスバッチ(AからD)も付けることになっていたので、町の人も生徒の成績程度が分かるようになっていた。だから入学前は、中学生の仲間で評判が悪かった。そのS校長は、拙者が入学した年に他校に赴任していた。が、まだその影響は残り、クラスは入学試験の成績で編成されたが、3年生時には成績順ということはなくなった。入学当時、机には番号が付されていたと記憶している。それが、前年までは厳しい校長の指導のもとに、成績順に並べられていたのかもしれない。
その後 作者 は、念願叶って東京の学校(現在の一橋大学)に進学し、同世代の文学仲間と接触するようになる。特に、梶井基次郎との出会いは、内気で多少アマノジャクの感が無くもない筆者にさえも、大きな感動と喜びを与えている。別の伊藤整集巻末に掲載されていた、 作者 の息子の「父の死」の回想では、病床で梶井基次郎との出会いについて何度も語って聞かせたようである。「ある詩人の肖像」は、十分な文芸活動も果たせず、そして広く世に認められることもなく、不治の病に倒れていった梶井基次郎を後世に伝えるべく書かれたものではないだろうかと、読了後そのように思った次第である。
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明日夜行バスでケセンに帰省することにした。
伊藤整の次に、山本有三の小説も読んだので、その感想は上京後に報告したい。
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