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2011年10月6日木曜日

続1:金次郎像

「少年時代」の作者(江口渙)の大学生時分、親戚に91歳と随分ご高齢の老婆がいた。彼女が14-15歳の頃に、来村(現在:栃木県烏山市)した二宮尊徳(1787-1856)を直接見ているというのである。どんな立派な御仁かと期待したところ、薄汚い爺様に随分ガッカリしたという回想を、作者は本人から直接聞いている。また周辺の古老の間では、二宮尊徳のよからぬ噂があったらしい。尊徳は農政家として知られている一方で、高利貸の面もあったというのである。作者は、二宮尊徳は偉人どころか一代の「くわせ者」とみているのである。

問題は明治に入ってからである。そんな彼の実像(作者の視点)とは裏腹に、何故に二宮金次郎像が全国の小学校にあるのだろうか。拙者の通った末崎小学校にも金次郎像は、正面玄関(教職員だけが利用)の左側にあった。朝礼の時は、金次郎像と向かい合う位置関係になる。



戦後民主主義教育が国の隅々迄行き渡った当時、金次郎像が何故あるのかは誰も説明してくれない。拙者の祖母以外からは、金次郎の話を聞いたこともなければ、授業で取り上げられる事もなかった。薪を背負い読書する子供の姿は、模範的態度とも思える。金次郎の生きた昔程ではないにしても、当時は子供でも農作業や漁業の貴重な労働力だった。学業と仕事の手伝いの両立は当たり前で、その理想像が金次郎と勝手に思っていたのである。まあ拙者の場合、学業はほったらかしではあったが・・・。

だが作者の見方は違う。尊徳の高弟が書いた伝記「報徳記」を、時の農商務大臣、品川与一郎(在任期間:明治20-25)が読んで感動し、文部省がこれに追随して国定修身の教科書に採用したらしい。これを見て、上には弱く下には強い当時の教育家が出世競争で金次郎像を広めたというのである。しかも、銅像では高価なので、安いコンクリート製のものを大量に生産した。その一つが、我が末小の金次郎像である、おそらく。全国の小学校の校庭に、同時期に一斉に据えられたのではないだろうか。

金次郎像の最大の目的は、「地主のために身を粉にして働く農民、資本家のために命をすりへらして働く労働者を作ることにあった」と作者は述べている。作者らしいマルキスト的解釈ではある。モデルとなった二宮尊徳が偉人かどうは、評価の別れるところであろう。もっとも、歴史的人物の評価は単純ではない。人物の評価は、時代とともにコロコロ変わる。本人の実像は知らないが、金次郎像そのものは、戦後世代の我々には人畜無害であり、また勤勉・勤労の姿勢は学校教育の基本でもあろうから、それほどムキに批判すべきものではないと思うのだが。むしろ、受験戦争で小さい時から塾通いの方が問題である。皿洗いや掃除くらいはさせるべきではないか。むしろ、金次郎を見習えと言いたいのだが。

そこでニューバージョンの金次郎像を提案したい。薪を運びながら、将来ミュージシャンを目指し寸暇を惜しんでギターを引いている金次郎像はどうだろうか。ちょっとアナクロにはなるが、自然エネルギーの見直しで、将来薪も重要な再生エネルギーと見直される可能性もあるので、薪運びとギター弾きの金次郎像。これなら、文句は無かろう!?


追記:
作者の晩年1970年代までは、「資本家」対「労働者」の対立関係で捉えられたものである。だが、今日では「正規労働者」対「非正規労働者」、言わば労働者内に、皮肉であるが階級が発生している。同一労働同一賃金。だが、非正規労働者の差別的待遇を尻目に、正規労働者が既得権益を享受している現実を知ったら、かつて命をかけて闘った労働運動の先人達は、草葉の陰でどう思っているであろうか。

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